(養源院 提供:写真AC)

豊臣家を滅亡させ、徳川幕府を開いた徳川家康。
家康は幼いころから人質生活を強いられるのですが、そのころから家康に付き従い、最後の最後まで家康のために生きつづけた武将がいました。

鳥居元忠という人物です。徳川家康の前身となる「松平家」と同じ三河国に生まれ、家康に生涯をささげた元忠の人生に迫ります。

 

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人質生活をしていた家康に寄り添った元忠

(竹千代君像-幼少時の家康 提供:写真AC)

鳥居元忠は、三河の松平家に仕える鳥居家の三男として生まれました。

三男ですから、もともとは鳥居家を継ぐ予定もなく、実際に家督は長男が継いでいたのですが、その長男が戦でなくなったこと、次男は寺の住職となっていたことから元忠が家督相続をすることになったのです。

その元忠と、家康の出会いは運命的なものでした。

当時、勢力を伸ばしつつあった武将が織田信長です。その信長は、家康の父・松平広忠が治める三河に侵攻しようとしていました。そこで、広忠は力のあった今川家の今川義元という人物と手を組むことにしました。

 

でも、戦国の世の中では「手を貸してくれ」というだけで助けてもらうことはできません。広忠は、跡継ぎとして生まれた子を今川家の人質にやることで、今川家への忠誠を示そうとしたのです。この人質が、後の徳川家康です。

家康より2つ年上だった元忠は、13歳の時に人質生活をしていた家康と行動を共にするようになったと言われています。幼くして人質生活を強いられた家康にとって、歳が近く同郷の元忠はどんなに頼りになったことでしょう。元忠の方も、このころから家康のことをとても大切に思っていたようです。

(※この時は「竹千代」という名前で、家康はたびたび名前を変えますが、ここでは解りやすく「徳川家康」で統一して紹介します。)

二人の今生の別れ~伏見城で奮闘した鳥居元忠の死

(伏見城 提供:写真AC)

元忠は「姉川の戦い」をはじめ「長篠の戦い」「黒駒の戦い」など多くの戦に出陣し、家康のために戦いました。戦の中で片足が不自由になるものの、それでも変わらず家康のもとで戦に出ています。

これらの働きを認めた家康は「感状」をあたえようとしますが、元忠は「そのようなものは裏切る可能性がある者にのみ与えるべき」といって固辞。

さらに秀吉からの取り立ても「二君に仕えるつもりはない」と断りました。ここまでの忠臣ぶりを見せつけた元忠ですが、死ぬときもそれは変わりませんでした。

家康の「上杉征伐」前に、伏見城で今生の別れ

時代は流れ、天下統一を果たした豊臣秀吉が死去したのちのこと。

豊臣家の中では、石田三成とそのほかの豊臣家臣たち(加藤清正、福島正則など)が対立するようになります。この時、家康はかなりの力をつけており、加藤清正らは家康と共に三成を倒したいと考えていました。

 

三成との関係が緊迫していく中、家康はかねてより謀反を起こしそうな気配を見せていた上杉家の討伐に向かうことになります(この時の上杉家は会津にありました)。

元忠はこの上杉討伐に同行せず、少ない兵のみの「伏見城」という城を任されています。この伏見城は、「三成が攻めるなら、わずかな兵しかいないこの伏見城から攻めるだろう」という場所。確実に攻撃されます。

 

家康は、上杉討伐に向かう途中にこの伏見城に泊まり「人手不足で、十分な兵を残すことができない。苦労を掛ける」と元忠に言いました。

すべてを察していた元忠は「そうは思いません。天下の無事のためです。何かあれば討ち死にして火をかけるので、できるだけ多くの兵を連れて行ってください」と家康に返答しました。

この覚悟と忠誠心に、家康は深く感謝をしたそうです。

1800の兵で40000の軍勢とたたかい、10日以上持ちこたえた元忠

(提供:写真AC)

そして、やはり家康の留守の隙をついて三成は挙兵。

伏見城を囲んだ軍勢は40000と言われ、1800しかいない元忠の軍はどう見ても不利でした。しかし、元忠は奮闘に奮闘を重ね、さらに降伏を勧告しに来た使者を殺してまで抵抗。10日以上にわたって戦い続けました。

しかし、最後に敵将の雑賀孫一が現れた時に「首をとって手柄にしろ」と自ら言い放ち、切腹。孫一はそれを介錯し、首を落としました。徳川家のために生きた元忠は、伏見城でその生涯を終えたのです。享年62歳。

 

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現在も残る「血天井」のこと

(養源院  提供:写真AC)

「関ヶ原の戦い」をはじめ、かなり混乱していた時期であることもあり、元忠の遺体はすぐに葬ることはできませんでした(首は一度晒されたものの、縁があった人物が取り戻して葬られています)。

その間に城の床板が血を吸い、血だらけになりました。家康はこの血が付いた床を江戸城に運ばせ、元忠の奮闘を示すものとして階上においたそうです。現在も「血のついた床板」は京都内の寺の天井として使用されています。

これが、有名な「血天井」。

なぜ血がついた板を天井として使用するのか?ですが、これは寺の天井として使用することが供養の意味を持つと言われているためです。

京都の養源院には、鳥居元忠の切腹時の血天井があります。三十三間堂のすぐ隣にあるお寺なので、立ち寄る人もかなり多いとか。

血天井には顔や手足の跡、血が流れた跡もはっきり残っていて、住職がきちんと説明をしてくれるようです。元忠の生きざまは「三河武士の鏡」として讃えられ、家康の天下統一を見ることはかなわなかったものの、間違いなく天下人・家康を支えた人物として語り継がれました。

子孫は「忠臣蔵」の赤穂浪士・大石内蔵助。

(大石内蔵助像 提供:写真AC)

さて、元忠自身は「関ヶ原の戦い」以前に亡くなりますが、子孫たちは生き延びています。元忠の4男・鳥居忠勝は水戸藩氏となり、その娘が赤穂藩というところの大石家に嫁ぎました。

この娘の孫が、「赤穂浪士」で有名な大石内蔵助です。

「赤穂浪士」を簡単に説明すると、主を切腹させられた怒りに燃えた47人の義士たちが、その仇を討って自らも切腹して果てるというもの。この赤穂浪士のリーダーが大石内蔵助です。

元忠の忠誠心は、時代を超えて子孫にもちゃんと受け継がれていました。赤穂浪士たちの存在は、のちに「仮名手本忠臣蔵」として歌舞伎の題材になり、現在でも「忠臣蔵」という時代劇で知ることができます。

 

余談ですが、この赤穂浪士に憧れたのちの「新選組」が、赤穂浪士の着物を隊服のデザインに取り入れたと言われています。新選組の隊服の袖のところをみると、山が連なるようなデザインになっていますよね。これが、赤穂浪士の真似です。

新選組は、もとは農民や下級武士の生まれでありながら、赤穂浪士の忠誠心に憧れて最期まで徳川家のために新政府軍と戦いました。どこか、徳川のために戦って死んでいった元忠の魂を感じさせますね。

 

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