「おもしろき こともなき世を おもしろく」

死後150年がたちましたが、この高杉晋作の辞世の句はとても有名です。
山口県の地酒や高杉晋作のグッズなどにも使われているほどです。

東行という号を持つ高杉晋作は、漢詩や俳句をよく詠み、書にしました。
高杉晋作の書は、尊攘の志士たちの間では珍重されていたといいます。

坂本龍馬も、高杉晋作に書を求めています。高杉晋作の詠んだ漢詩や俳句は、現代に伝わるものだけで370作にものぼります。

 

長州藩に生まれ、松下村塾で吉田松陰に学んだ高杉晋作。奇兵隊の創設した後、下関戦争の講話交渉では彦根の租借要求を断固として退けました。

高杉晋作は功山寺での挙兵に成功し、長州藩の反論を倒幕に転換することに成功します。第二次長州征討では自ら軍艦に乗り込み海軍を指揮ました。

周防灘で幕府軍艦を破る活躍を見せますが、その翌年、下関の地で肺結核によって亡くなります。29歳でした。

詩人・東行でもある高杉晋作。今回は高杉晋作の辞世の句、「おもしろき こともなき世に おもしろく」について、詳しくご紹介していきます。

 

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「おもしろき〜」の意味を現代風に超訳。

(提供:写真AC

それでは、さっそく高杉晋作の有名な辞世の句「おもしろき~」を、現代風に超訳していきましょう。

おもしろくも何ともない世の中をおもしろくしてみようか(超訳)

150年前――高杉晋作は激動の幕末を駆け抜けました。

生涯の師と仰いだ吉田松陰を亡くし、尊王攘夷運動に奔走しますが、謹慎や脱藩を繰り返し、若くして肺結核に冒された高杉晋作は、世の中が決しておもしろいものではないとわかっていたのかもしれません。

「苦しいという言葉だけは、どんなことがあっても言わないでおこう」という言葉を残した高杉晋作は、こんな苦しい世の中でもおもしろくしてみようか思っていたのかもしれません。

句が詠まれた桜山。晩年の高杉の生活は?

(桜山神社 提供:写真AC)

 

■晩年を過ごした桜山。死の間際の高杉について。

1966年6月、第二次長州征討で小倉城での戦いに勝利をおさめた高杉晋作ですが、すでにこの頃から肺結核の症状があったようでした。

下関市にある桜山神社の近くに家を建て、高杉晋作は療養のために移り住みます。高杉晋作はその家を「東行庵」と名付けました。

奇兵隊はこの桜山でよく訓練をしていました。
その後、高杉晋作の提案によって、桜山に奇兵隊招魂場が作られました。

 

高杉晋作は桜山にとても思い入れがあったようで、自分が死んだ時はこの地に埋葬してほしいと遺しています。愛妾のおうのと野村望東尼(のむらもとに、のむらぼうとうに)という女流勤王家が、高杉晋作を看病しました。

野村望東尼は福岡藩士の妻でしたが、夫を亡くした後は剃髪して仏門に入ります。その後、福岡の平尾で、尊攘の志士たちが交流するサロンを主催、多くの志士たちと交流を持つようになり、支援も行いました。

 

■高杉を看病した野村望東尼。

野村望東尼は高杉晋作をかくまったこともありました。

1966年9月、福岡藩の弾圧によって60歳という高齢でありながら孤島へ流刑されてしまいます。それを知った高杉晋作は、すでに病床にありましたが、野村望東尼の救出を指示します。

助け出された野村望東尼は、おうのとともに高杉晋作の看病をするようになりました。萩から高杉晋作の正妻まさが訪れると、おうのとの関係を取り持とうと気を配ったようです。

 

さて、歌人でもあった野村望東尼は「冬ふかき 雪のうちなる梅の花 埋もれながらも 香やは隠るる」と、高杉晋作を詠っています。

雪の中に埋もれて姿が見えなくても、梅の花の香りは決して消えないという意味の野村望東尼の歌は、梅の花が好きだった高杉晋作の類いまれな才能を表現しています。

 

病床に伏せった高杉晋作ですが、筆をとっては句をしたためました。

紙を受け取ったおうのは、階下にいる野村望東尼に届けます。

野村望東尼は高杉晋作が書いた上の句に、下の句を書き加えました。

東行庵で2人は句のやり取りをして楽しんでいたのです。これにはおうのも足が疲れたと漏らしていたそう。

 

■辞世の句についてのエピソード

さて高杉晋作の辞世の句「おもしろき~」には、「おもしろい」エピソードが伝わっています。肺結核に冒された高杉晋作は、辞世の句をしたためようとします。

「おもしろき~」まで詠んだ高杉晋作は、息苦しさを覚え、筆を置いてしまいます。野村望東尼は「すみなすものは 心なりけり」と、下の句を続けました。すべては心の持ちようだと、野村望東尼は言ったのです。

高杉晋作は「おもしろいのう」と言い、息を引き取った――というもの。

 

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辞世の句は事前準備するもの。

(提供:写真AC

辞世の句、つまり自らの死を歌で表現するという風習は、日本固有の文化とみられています。日本ではすでに戦国時代には辞世の句という風習が定着し、多くの戦国武将が辞世の句を遺しています。

関が原の戦いで敗北し、斬首されることになった石田三成は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」という辞世の句を遺しています。

筑摩江の芦の間にかがり火が灯っているな。あの灯とともに、まもなくわが命も消えてしまうのだろう」と、これからむかえる自らの死を、故郷の光景を用いて表現しています。

 

江戸時代になると武士の間では切腹が行われるようになり、切腹の前に辞世の句をしたためることも根付くようになります。

こうなると、辞世の句はあたかも死の間際に読まれるものと思われがちですが、そういうわけではありません。

切腹を含め、自害する場合でしたら、死の直前に詠むことができますが、実際は討ち死にや病没が多かったので、事前に残しておかざるを得ませんでした。

 

急逝のため辞世の句を用意しておらず、最期に残した作品がたまたま辞世の句として残った例もあります。こういう辞世の句は「絶句」とも呼ばれています。

海外の人には、なかなか辞世の句という概念を理解してもらえないようですが、それと同時に、当時、武器を持って戦っていた武士たちに句を作ることができるほどの教養があったことにも驚かれるようです。

高杉の最期。肺結核で妻に看取られながら、この世を去った。

病床にあった高杉晋作は、竹の絵を描くことも好みました。

そのため、容態が悪化し、東行庵から新地の林算九朗宅の離れへと移ることになりました。竹にちなみ「緑筠堂」と、高杉晋作はこの離れを呼ぶようになります。この頃には、おうのが作る芋粥も、食べることができなくなっていたといいます。

東行庵で療養していた頃は、体調がいい時は、桜山の吉田松陰の墓前で酒を飲んでいたと言いますから、誰の目から見ても高杉晋作の命はそう長くないことが明らかでした。

 

そのことを知った長州藩からは、薬代として3両が下賜されました。

もともと肺結核を抱えながら、無理をして指揮をとろうとした高杉晋作に療養に専念するように命じたのは長州藩でした。

長州藩は出張に出ていた藩医を呼び戻すなど、高杉晋作の治療のために手を尽くしました。長州藩―そしてこれからの日本に-高杉晋作は必要な存在だったのです。

 

一方、萩の実家らからは、高杉晋作の実父と、妻のまさ、そしてひとり息子を連れて訪ねてきました。そのため、おうのは高杉晋作の傍を離れなければなりませんでした。

野村望東尼は最期まで高杉晋作の看病にあたりました。

1863年4月13日の深夜、高杉晋作は妻のまさをはじめ、息子と父、そして野村望東尼に看取られ、肺結核の為、この世を去りました。

大政奉還の半年前のことでした。

 

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