(高杉晋作立像 提供:写真AC

「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然、敢て正視する者なし」

現代語訳すると、動けば雷電のようで、発すれば雨風のようである。
周りの者はただ驚き、呆然とするだけで、あえて正視する者すらいない。

この言葉、初代内閣総理大臣、伊藤博文が「ある人物」のことを評価したものだったのです。その人物とは、「高杉晋作」です。

この記事では、伊藤博文をして「雷電の如く」と言わしめた高杉晋作の人生に迫ります。

 

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高杉の功績。倒幕に大きく貢献する。

(松下村塾 提供:写真AC)

■松下村塾の門下生

高杉晋作は、今からおよそ180年前、現在の山口県である長州藩の中級武士の家に生まれました。19歳で松下村塾の門を叩き、吉田松陰のもとで学びます。高杉晋作は、23歳の時、幕府の調査団の一員として上海へ渡航します。

清国が西洋列強によって半植民地化されていることに大きな衝撃を受けました。帰国した高杉晋作は、尊王攘夷運動に加わり、イギリス公使館焼き討ちを実行します。

過酷な尊王攘夷運動を展開していた高杉晋作ですが、十年間の暇を藩に願い出て、剃髪して京都に移ります。しかし、長州藩外国船砲撃事件が勃発し、高杉晋作はわずか2ヶ月で藩に呼び戻され、下関の防備を一任されます。

高杉晋作は、武士・商人・農民と身分を問わない、有志の民兵組織「奇兵隊」を結成しました。高杉晋作はその後、謹慎処分中に脱藩を決行、投獄されますが刑を減免されて謹慎を言い渡されます。

 

■交渉の達人でもあった。

長州藩は下関戦争の講話交渉に高杉晋作を派遣します。
高杉晋作は彦根の租借要求を断固として退けました。

下関戦争の講話交渉に成功した高杉晋作でしたが、幕府恭順をかかげる保守派に藩論を握られると、粛清を逃れ長州を出ました。

高杉晋作は長州藩の幕府への謝罪恭順を聞くと、功山寺で挙兵します。

 

このクーデーターは成功し、長州藩はいよいよ倒幕へと反論を転換、薩長同盟の布石となりました。

第二次長州征討の小倉城での攻防戦では、高杉晋作は海軍を指揮し、周防灘で幕府軍艦を破る活躍を見せますが、その翌年、肺結核で亡くなります。

高杉の人物像。行動力があるが、金遣いが荒く、女好きな一面も。

(高杉晋作騎馬像 提供:写真AC)

さて、高杉晋作の人物像に迫りましょう。

松下村塾で師事した吉田松陰に、高杉晋作は多大な影響を受けました。
吉田松陰は「何もせずに機会を失ってしまうのは、人の罪である」と、
高杉晋作をはじめ塾生たちに行動することの大切さを教えました。

この教えのおかげなのか、高杉晋作は行動力の塊のような人物でした。その証拠に、高杉のアクティブさを示す、こんなエピソードが残っています。

 

■勝手に軍艦を購入。

第二次長州征討に長州藩が軍備を備えていた頃、高杉晋作は長崎で3万6千両のオランダ船を購入します。この時、高杉晋作にはいっさいの持ち合わせがなく、「長州藩の後払い」にして独断で購入します。長州藩は覚えのない高額な請求に絶句することになります。現在の貨幣価値で数億円ですから。

しかし、高杉の判断は間違っていませんでした。高杉晋作が購入した軍艦「丙寅丸」は、第二次長州征討における小倉城での攻防戦で、高杉晋作自らが乗り込んで指揮をし、幕府軍艦を打ち破っています。

しかし、高杉晋作は、長州藩にとって必要と判断して、購入を即決。高杉晋作の判断力と行動力がうかがえるエピソードです。

 

■『古事記』で交渉相手を煙に巻く。

高杉晋作が下関戦争の講話交渉に臨んだ時のことです。

烏帽子直垂という貴族の装いで現れた高杉晋作は、彦島の租借を要求されると、突然古事記の講釈を始めます。

古事記に書かれているように、日本は過去に1度たりとも他国に土地を明け渡したことはないということを示したわけですが、高杉晋作は古事記講釈を続けて交渉そのものをうやむやにしようと考えていたようです。

高杉晋作の思惑通り、西洋列強の彦根租借を退けることに成功します。

 

■私生活ではダメな一面も。

しかし、高杉晋作は、金遣いが荒いという一面もありました。

幕府の調査団に随行して上海へ渡航することになった高杉ですが、出航前に藩から渡された出張経費を女遊びと飲酒代に使い果たしてしまいました。

金遣いが荒く、女好きだったのですね。公私のお金の区別がつかない(つけない?)ために、トラブルが絶えなかったようです。豪快な人物だったのですね。

無二の親友・吉田稔麿とのエピソード。

(松下村塾 講義室 提供:写真AC)

松下村塾には、高杉晋作をはじめ「四天王」と呼ばれる、吉田松陰に高く評価された4人の秀才がいました。久坂玄端、入江九一、吉田稔麿です。

高杉晋作より2歳年下の吉田稔麿は、身分の低い足軽の生まれでした。
松下村塾で高杉晋作と学び、後に高杉晋作が創設した奇兵隊に参加します。

「私が初めて松下村塾に行った時、あるひとりに目が止まった。
神彩英暢(外見・内面ともに優れていること)で、眼光は鋭く人を射り、その名前を吉田稔麿と言う。身分は足軽だという。私は一目見て、共に語り合う友人になるべきだと思った」

高杉晋作は吉田稔麿との初対面を、このように記録しています。

吉田稔麿も「俗事にこだわらない俊才であり、誰も繋ぎとめることはできない、まさに鼻輪を通さぬ放れ馬である」と、高杉晋作を評価しています。

お互いに好意的に評価していたのですね。
その後も、二人の親交は深く、稔麿は奇兵隊にも参加しています。

 

しかし、稔麿は若くして命を落とします。1864年7月8日、池田屋で行われていた尊攘志士の会合に参加します。そこを、京都の治安維持組織、新撰組が襲撃(池田屋事件)。24歳の生涯に幕を閉じました。

現在、山口県下関市にある桜山神社に、吉田松陰とともに、高杉晋作と吉田稔麿の招魂墓が建っています。

 

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坂本龍馬が寺田屋で撃ったピストルは高杉からのプレゼント。

(提供:写真AC)

「識者は航海を謀り、義人は将に邦を鎖さんとす。
之を思い、亦是を思い、我が眼忽ち朧々」

直筆で五言絶句をしたためた扇子とともに、高杉晋作は坂本龍馬へピストルをプレゼントしました。薩長同盟実現へ向け、高杉晋作と坂本龍馬が下関で会談した時のことです。意外に知られていませんが、高杉晋作も、薩長同盟の実現に尽力した人物のひとりです。

西郷隆盛に1度会談の約束を破棄され、再度会談に応じることを渋っていた桂小五郎に、藩主の命令をとりつけ会談へ向かわせているのです。

 

さて、薩長同名締結の2日後、坂本龍馬は寺田屋で50人もの捕り方に襲撃されます。いわゆる「寺田屋事件」です。

この時、坂本龍馬は高杉晋作からプレゼントされたスミス・アンド・ウェッソンを発砲。この窮地を切り抜けることに成功しました。

それから半年後――高杉晋作と坂本龍馬は、再会をよろこび、酒を飲み交わしました。この時、高杉晋作は第二次長州征討での共闘を依頼します。約束通り、坂本龍馬は第二次長州征討が勃発すると、ユニオン号の戦将として参戦しました。

愛人おうのとゲス不倫!妻・井上まさと修羅場に。

(提供:写真AC

長州の萩城下でも美人として評判だった井上まさ。

16歳のまさには多くの縁談が舞い込み、決めかねた父親はこよりを作って本人に引かせたところ、「高杉晋作」を引き当てた……という逸話があります。こうして高杉晋作は21歳の時、井上まさと結婚しました。

 

しかし、6年間の夫婦生活の実態はというと、共に暮らしたのは1年ほどしかありませんでした。ただ、2人の間に男児が誕生しています。

高杉晋作は文字通り、国事に奔走していました。各地を飛び回る高杉晋作は、まさが待つ自宅へ帰ることが少なかったのです。

高杉晋作は滞在先からまさへよく手紙を書き送りました。まさへの思いやりが読み取れる手紙です。しかし、高杉晋作は奇兵隊の拠点があった下関で、愛人を作り、不倫をしていたのです。

 

■愛人の名はおうの。

高杉晋作より4歳年下のおうのは下関の芸妓でした。下関に滞在していた高杉晋作は、下関の遊郭で度々遊びに訪れていました。

おうのは美人でした。そして素直でおっとりとした性格をしていたといいます。高杉晋作が「人になぶられないように気をつけよ」と言うほど、お人よしだったようです。

おうのに惹かれた高杉晋作は、おうのを身請けして傍に置くようになります。下関にいる間は、おうのとともに生活していました。長州から逃れた時も、高杉晋作はおうのを伴い、1ヶ月ほど四国に潜伏しています。

 

高杉晋作は肺結核を患い、下関で療養します。

おうのが傍で看病していましたが、そこへ妻のまさが子供を連れて尋ねて来ました。愛人に看病されているところに、妻子が登場したのです。

ドラマでも演じられることのない、とんでもない修羅場です。

病気で身心ともに苦しい状態であった高杉晋作ですが、妻と愛人の板ばさみになったことは非常にストレスだったようで、桂小五郎に愚痴を書き連ねた手紙を送りつけるほど。

 

また、高杉晋作の得意の漢詩には、こう記されています。

「妻子が訪ねて来て、愛人のおうのは驚き、とても胸を痛めている。美しい二つの花(妻と愛人)は、どちらが咲き落ちるか競い合っていて、自分は手をこまねいて見ているしかなかった」

相当な修羅場を想像することができます。

結局、高杉晋作は、妻のまさや家族に看取られて亡くなります。

しかし、高杉の死後、二人はそれぞれ、高杉晋作との約束を守り、まさは再婚することなく高杉家を守り、おうのは出家して晋作の墓を守りました。

かつては修羅場を演じたまさとおうのでしたが、東京に移住していた高杉家に、おうのが滞在するなど、高杉晋作の心配をよそに、とてもいい関係を築くことができていたようです。

 

奇兵隊を創設した理由と歴史に果たした意味。

長州藩外国船砲撃事件でフランス軍艦による報復攻撃を受け、攘夷戦に完敗します。高杉晋作は長州藩の正規軍隊では、攘夷は難しいと考えました。

吉田松陰も提唱していたように、軍事力を強化するには軍備の西洋化が必須だと考えたのです。下関総奉行手元役として下関の防備を一任された高杉。

「臣に一策あり。請う、有志の士を募り一隊を創設し、名づけて奇兵隊といわん」

有志を募って、民兵組織「奇兵隊」を立ち上げます。奇兵隊には武士はもちろん、農民や漁師、町人、寺社に所属する僧侶など、最終的に375人もの隊士が集まりました。また、西洋の最新兵器が積極的に取り入れられたのです。

 

さらに長州藩では、腐懲隊や遊撃隊、御楯隊など、奇兵隊に続く民兵組織が結成されました。これらをまとめて「長州諸隊」と呼び、4000人もの民兵が集まりました。

まもなく奇兵隊と長州藩の正規兵が衝突した教法寺事件の責任を問われ、高杉晋作は奇兵隊総監を罷免されてしまいます。

創設者の手から離れた騎兵隊ですが、その後、禁門の変にはじまり、下関戦争、第二次長州征討、そして戊辰戦争を戦い、倒幕に大きく貢献しました。

小倉城攻防戦の半年後、肺結核で亡くなる。

1866年、ついに第二次長州征討がはじまります。
高杉晋作は丙寅丸に乗り込み、長州艦隊を指揮します。

6月17日早朝、高杉率いる長州艦隊は、下関の対岸門司の田野浦を奇襲攻撃します。小倉口の長州軍の兵は1000人、幕府軍の兵は2万人、高杉率いる長州艦隊は圧倒的に不利な状況でしたが、奇襲は成功、幕府軍は敗走します。

ユニオン号で応援に駆けつけた坂本龍馬は「戦況が不利になると、高杉は酒樽を持って来て、兵士に飲ませては士気を鼓舞していた」と、故郷への手紙に書き送っています。

 

7月末に将軍徳川家茂の死を知った、幕府軍総督・小笠原長行が陣を抜け出したことで、8月1日には小倉城が陥落します。

しかし、第二次長州征討、小倉城攻防戦の頃には、高杉晋作の肺結核は進行し、下関での療養を余儀なくされます。酒好きの高杉晋作は、体調がいい日は、吉田松陰の墓前で酒を飲んでいたと伝えられています。

小倉城攻防戦から半年後、高杉晋作は肺結核のため亡くなりました。
高杉晋作の遺言のとおり、下関の地に土葬されました。

亡くなる1ヶ月前、伊藤博文は高杉晋作の顕彰碑に「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し~これ、我が東行高杉君に非ずや」から始まる碑文を寄せました。享年27歳。幕末を駆け抜けた男の若すぎる死でした。

 

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