(阿部正弘像 管理人撮影)

慶長15年(1610)、現在の文京区西片町に阿部家が屋敷を構えた時から、奥州街道を行く旅人たちの目印にもなっていた大きな椎(しい)の木がありました。

この椎の木は大正4年に史蹟名勝天然記念物に指定され、昭和5年(1930)には阿部家15代当主によって、椎の木周辺の一部を児童公園として整備、子どもたちは「阿部さま公園」と呼んで遊びました。

こうして後に「阿部さま」と呼ばれることになる阿部家は、徳川家康の家臣にはじまった譜代大名の名門でした。現在の広島県東部にあたる備後福山藩を所領し、藩主からは実に6人もの老中が輩出されています。

とくにペリー来航時に幕府老中首座にあり、開国に備えて安政の改革を主導した、福山藩7代目藩主・阿部正弘は、歴史の教科書に取り上げられるほど、幕末前夜の日本史上にその名前を残した人物です。

 

維新後、安政の改革は一定の評価を得ていますが、現在の阿部正弘の評価は決して高くはありません。しかし、この阿部正弘、実はもっと評価されるべき優秀な政治家だったのです。

今回は気になるペリー来航時の対応から歴史的業績まで、阿部正弘について解説していきます。

 

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阿部正弘の生い立ちと経歴。どんな人柄なのか?

(椎の実 提供:写真AC)

当時、椎の木の実は子どものおやつに炒って出されたといいます。
もしかしたら阿部正弘も、子どもの時に自宅の椎の木からとった実をおやつにして食べていたかもしれません。

1819年、福山藩5代目藩主・阿部正精の5男として江戸で誕生した阿部正弘は、8歳の頃には現在の文京区西片町にある阿部屋敷に移り住み、10歳からは儒学を学び、馬術・槍術も修練し、文武ともに励みます。

病気を理由に老中を辞任して療養していた実父・阿部正精が死去すると、兄の阿部正寧が家督を継ぎ、幕閣の登竜門的役職である奏者番に任じられますが、病気を理由に辞任し、18歳の阿部正弘が家督を継ぎ、第7代福山藩主となりました。

 

1840年には寺社奉行に任じられ、日光東照宮の修繕などに取り組みます。
そのころ、徳川家斉の時代に、大奥と僧侶が色欲の限りを尽くしていたという事実が明るみになると、徳川家斉への非難が表面化することを避け、関係僧侶と一部の大奥関係者を処分しました。

寺社奉行としての阿部正弘の裁断が将軍・徳川家慶の目にかかり、1843年、本来なら京都所司代、大坂城代などを経て老中に就くものを、徳川家慶によって老中に抜擢されます。

末端の老中だった阿部正弘でしたが、当時ころころと老中首座が入れ替わり、気づくと老中の中で一番在任期間が長くなていて、25歳という若さで老中首座に就任し、幕府政治をけん引していくことになりました。

 

前任の老中首座・水野忠邦は天保の改革を断行、庶民を苦しめる政策を行い、失脚した時には江戸市民に屋敷を襲撃されています。さらに阿部正弘の死後、大老として幕府政治を主導した井伊直弼は、天皇の勅許をなしに通商条約を調印し、反対政策を安政の大獄で処分、そのため桜田門外の変で殺害されます。

前後の幕閣のトップは、いずれもその権力を振りかざしますが、はたして、阿部正弘はどうだったのでしょうか。

阿部正弘の人柄がわかるエピソードをご紹介します。

 

■人々の話に耳を傾けたエリート。

(旧江戸城 提供:写真AC)

老中首座の阿部正弘のもとに、大名から庶民にいたるまで、たくさんの人が訴えごとを持ち込みました。

阿部正弘は江戸城へ登城するたび、正座を崩すことなく数時間にわたって40~50人の話を熱心に聞きました。

面会が終わった後、阿部正弘が座っていたあとを見ると、畳が汗で湿っていたといいます。水野忠邦や井伊直弼とは異なり、阿部正弘は相手の身分に関わらず人の意見をよく聞くことができる、誠実な人柄の持ち主でした。

幕府の民主的改革と開国政策を推進。

(神戸旧居留地 提供:写真AC)

アメリカを代表してペリーが日本に開国を要求すると、阿部正弘はアメリカの国書を公開、外様大名をはじめ旗本や御家人、さらに庶民にまで広く意見を求めました。すると阿部正弘のもとへ、719通にのぼる意見書が集まりました。

さらに庶民からも9通の意見書が寄せられています。

 

旗本の勝海舟も本格的な日本海軍の創設を提案し、新設された軍艦奉行に任命されます。阿部正弘は勝海舟だけでなく、家格や身分を問わず、優秀な人材を積極的に登用します。

新設の外国奉行には、永井尚志を抜擢、土佐の漁民ジョン万次郎を直参の旗本に取り立てます。さらに「挙国一致」を掲げ、前水戸藩主・徳川斉昭を海防参与に任命、海外情勢に明るい薩摩藩主・島津斉彬や越前藩主・松平春嶽などの大名と盛んに意見を交わします。

 

新たな幕府機関として蕃書調所を設置、海外情勢の研究に乗り出し、1855年には長崎に海軍伝習所を開設、オランダ人教官を招き、幕臣や諸藩の藩士たちに操船・航海術などを教えました。

さらに国防の強化をはかり、品川の5カ所に人口島砲台を設置、大砲を鋳造するため、伊豆韮山に製鉄炉を作りました。この阿部正弘が推進した民主的改革と開国政策は、安政の改革と呼ばれています。

 

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ペリー来航時の阿部正弘の対応。開国の決断は是が非か?

(ペリー来航記念の地 提供:写真AC)

オランダ国王が日本に親書を送ってきたのは、1844年、阿部正弘が老中に就任した翌年のことでした。江戸開府後、鎖国を掲げてきた日本でしたが、オランダとは長崎の出島を介して交易を続けていました。

鎖国をしていた日本は、おおよそオランダから国際情勢を収集していましたが、1844年のオランダ国王からの親書では、2年前に勃発したアヘン戦争の概要にはじまり、蒸気船の発明によって以前とは比べ物にならないほど海上交通網が発展したことで、日本がこれ以上鎖国を続けることは難しいとしたうえで、開国を勧める旨が記されていました。

 

オランダとしては日本との交易を独占した方がメリットがありますが、200年におよぶ付き合いを考えた結果、日本の将来を考えたのです。親書では、今までの長年の付き合いのお礼として、国際慣行など日本が知らないことを教えてあげたいとも書かれていました。

このオランダ国王の親書に対し、当時日本では最高の公文書にあたる老中奉書で返事を記します。まだ開国に積極的に踏み切ることは難しいが、近い将来開国をすることになるかもしれず、その時はぜひオランダに協力してもらいたいという内容のものでした。

オランダ国王の国書から2年後、アメリカ東印度艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航します。ビッドルは日本の開国、アメリカとの通商を交渉しますが、幕府はこれをやんわりと拒否し、揉め事を起こさずビッドルを帰しました。

ビッドルから日本に開国の意思がないという報告を受け、アメリカはついに日本へペリーを派遣、1853年6月、フィルモア大統領の国書をたずさえて、現在の神奈川県浦賀沖に黒船が襲来します。

 

軍事攻撃も辞さないアメリカ艦隊に、阿部正弘は国書の受理はやむ負えないと判断します。

しかし、老中首座自らが受け取る状況は避けるべきと考え、浦賀奉行に国書を受け取らせました。この時、阿部正弘は現地に赴いて、ペリーについてどういう人物か探っていたとされます。

 

フィルモア大統領の国書を受領した幕府は、1年後に国書に対して返答することを約束して、黒船を見送りました。フィルモア大統領の国書の日本語訳をただちに作成し、日本全国に公開して意見を募った阿部正弘は、現在の日本の軍備ではアメリカとの戦争は不可能と判断、翌年には日米和親条約が結ばれ、箱館と下田が開港されますが、この時点では通商を拒絶しました。

日米和親条約が結ばれるまでの1年間、阿部正弘は開国に向けて対策を行いました。諸藩へ資金を貸し付け、海防関係の工事を取り急ぎ行わせました。

さらに勝海舟の意見から、これまでの大船建造禁止令を解除し、オランダに蒸気船を2隻発注します。そのため、蒸気船を操舵できる人間や、船の維持・修理を行う技術者が必要となります。

 

阿部正弘はアメリカ同様に日本に開国を要求していたロシアに協力を要請し、蒸気船の操舵方法や造船技術を教わりました。

蒸気船が日本海を航海するようになると、外国船と見分けがつかなくなるため、日の丸が国旗として制定されました。

現在では、大国アメリカの武力を前に、幕府が弱腰となってなし崩し的に開国したように思われがちですが、阿部正弘は厳しい財政状況の中で、短期間に開国の準備を進めていたのです。

阿部正弘が重宝した堀田正睦は条約交渉に奔走。

(堀田正睦像 提供:写真AC)

1855年、阿部正弘の推挙で老中首座に就任した堀田正睦は、佐倉藩主として藩政改革に成功した実力者で、外交情勢に精通した開国論者でした。

1856年、アメリカ初代駐日大使ハリスが着任、すぐに幕府に対して通商条約締結に向けて交渉を開始しました。交渉自体はスムーズに進み、年末には条約の草案ができあがっていました。

 

しかし、日本国内では攘夷論が圧倒的多数を占めているのが現状でした。そこで堀田正睦は無事に通商条約を締結するため、天皇の勅許を得て国論をひとつにしようと考えました。

天皇から勅許を得るため、堀田正睦は自ら上洛して奔走しますが、極度の攘夷論者だった孝明天皇は通商条約締結に断固反対する考えでした。

さらに88人の公家が通商条約締結に反対して「廷臣八十八卿列参事件」と呼ばれる大きな抗議運動が起こり、堀田正睦は勅許を得られませんでした。

阿部正弘の歴史的業績。日本の植民地化を回避?

(提供:写真AC)

江戸幕府開府以来、200年にわたって鎖国を続けてきた日本は、アメリカの開国要求というかつてない危機に直面し、老中首座阿部正弘は、日本全国に意見を求め、安政の改革に着手して開国に踏み切りました。

阿部正弘が掲げた挙国一致体制によって、それまで政治の中心に携わることがなかった外様大名をはじめ、下級武士や庶民、さらには朝廷が発言力を持つようになり、後の尊王攘夷運動につながります。

阿部正弘が盛んに意見交換をした島津斉彬は下級藩士の西郷隆盛を見出し、軍艦奉行をに抜擢された勝海舟は後に江戸無血開城を実現するなど、阿部正弘に引き抜かれた人物たちは幕末史において大きな役割を果たしています。

阿部正弘の存在がなければ、日本の歴史が変わっていたかもしれません。

 

さらに、阿部正弘が開国に踏み切らなければ、ひっぱくした幕府財政のもと、準備も整わないままアメリカと戦争を行い、日本の国土は植民地となっていた可能性もあります。弱腰外交などと揶揄される当時の江戸幕府ですが、老中首座阿部正弘は安政の改革に着手し開国に踏み切りました。

1857年、阿部正弘は39歳という若さで病死します。
将軍・徳川家定は老中阿部正弘の訃報を受け、飲みかけていた薬包を落とし「阿部に総てをまかせていたのに、死んでしまった」と言いました。

また、島津斉彬は阿部正弘の訃報を薩摩へ帰国中に知ります。「阿部を失うことは、天下のために惜しむべきなり」と嘆息したと伝えられています。老中首座・阿部正弘は、当時の多くの人にその死を惜しまれました。

それこそ、現在において阿部正弘が評価されるべき証ではないでしょうか。

 

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