(平和記念公園 提供:写真AC)

太平洋戦争末期に日本へ行われた原子爆弾の投下。最初の広島に続いて二度目の原爆投下を受けたのは長崎市です。長崎への原爆投下について解説します。

 

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長崎に原爆が投下された理由。


(長崎 原爆投下後 提供:パブリックドメインQ

1945年(昭和20年)8月6日に史上初の原子爆弾が広島市で使用されました。アメリカ軍は次の目標を北九州の小倉と長崎に定めます。

2つの都市が選ばれた理由は6月にヘンリー・チムソン陸軍長官は原爆を使用する目標について軍需工場のある都市にすると決定していました。

 

小倉は陸軍の兵器工場である小倉陸軍造兵廠がある兵器生産の拠点です。

長崎は三菱重工の長崎造船所(戦艦「武蔵」を建造した所です)や兵器製作所がある兵器製造の拠点でした。もはや、広島での原爆投下からアメリカ軍は軍事作戦の一環として計画に従う形で原爆を使用する作戦を進めていました。

8月8日にB-29での日本爆撃作戦を担当している第20航空軍は翌日の8月9日に二度目の原爆投下を行うと決定します。

第一目標は小倉で第二目標は長崎となりました。

死者数は7.4万人。爆心地はテニスコート。

(原爆落下中心点 提供:写真AC)

8月9日午前11時2分に二度目の原爆の炸裂が長崎市で起こりました。

爆心地は長崎市の中心から北へ3kmにある高見氏の別荘にあるテニスコートの上空500mです。この別荘は三菱長崎造船所が宿舎として買い取ったばかりで無人でした。

しかし、長崎市の原爆での死者は1945年までの推定で7万3800人以上と7万4000人近くが亡くなりました。負傷者も7万4900人以上と多くの犠牲者が出ました。

広島市の原爆による犠牲者よりも数が少ないのは広島での経験から市民への避難を伝えたからだと言われています。

空襲警報だけではなくラジオからも原爆が炸裂する瞬間まで市民へ防空壕への避難を呼びかけ、可能な限り犠牲者を減らす努力がなされていました。

 

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当初の投下目標は、熊本小倉だった。なぜ、投下を免れたのか?

(小倉の街並み 提供:写真AC)

二度目の原爆投下が長崎市へ行われましたが最初は小倉にアメリカ軍は原爆を投下しようとしていました。なぜ、小倉は原爆投下を免れたのか?

9時44分に小倉上空に原爆を搭載したB-29が到達します。

しかし、小倉の上空は煙や霞がかかり狙いを定められない状態にありました。また、B-29の撃墜に日本軍戦闘機が出撃したのもあり、小倉への原爆投下は断念しました。

小倉を覆う煙や霞は、前日に小倉市の隣にある八幡市への空襲によって生じた瓦礫からの土埃や残る火災の煙、また八幡製鉄所が空襲から製鉄所を守るために重油を燃やして上げた黒煙でした。

この2つの煙が重なり戦闘機の出撃もあって小倉は悲劇を免れたのです。

原爆が投下された時間と黙祷のやり方。

(長崎 平和公園 提供:写真AC)

毎年8月9日になると長崎市は「長崎・原爆犠牲者・慰霊・平和祈念式典」を開催します。広島市の広島平和記念式典と同じ原爆犠牲者の追悼を目的にした式典です。

長崎市の場合は爆心地である松山町にある平和公園で行います。式典の会場は北村西望が作った9.7メートルの平和記念像の前です。

黙祷は長崎で原爆が投下され炸裂した時刻は11時2分に行います。黙祷は広島と同じく1分間静かに無言で犠牲者の冥福を祈ります。

広島との違いは小倉も同じ日に長崎での原爆犠牲者を追悼する原爆犠牲者慰霊平和祈念式典を行う点でしょう。

 

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