(佐賀城 提供:写真AC)

187年前、甲州街道を行く大名行列が、大勢の商人たちによって止められるという事件が起こりました。

肥前藩主となった鍋島直正が、お国入りするために甲州街道を西へ向かっているところ。押し寄せた商人たちは、江戸の肥前藩邸に貸し付けをしていて、借財返済を申し立てを行うために決死の覚悟で大名行列を止めたのです。

 

当時の肥前藩は、財政破綻寸前という危機的な状況に陥っていました。

フェートン号事件以来、長崎警備にかかる負担が大きかったこと、2年前のシーボルト台風で甚大な被害を受けたことで、復興費用が必要だったこと、さらに先代藩主の浪費が重なり、肥前藩の財政は逼迫していました。

前藩主であった父の隠居をうけて、藩主就任が決まった鍋島直正は当時17歳でした。江戸の肥前藩邸で生まれ育った鍋島直正は、このできごとで佐賀藩の貧窮した財政状況を強く意識することになりました。

トラブルが起こりながらも、肥前藩入りをした鍋島直正、当初は江戸で隠居生活を送る前藩主と前藩主の家臣たちに配慮しながらのスタートでしたが、実権を握るようになると財政の立て直しをはじめ、次々と藩政改革を行います。

 

後に「薩長土肥」と言われ、肥前藩は明治新政府の一翼を担うようになりますが、薩長同盟を結んだ薩摩藩、長州藩、その仲介役を務めた坂本龍馬の土佐藩は、現代でもすんなり認識できるところですが、果たして、肥前藩は明治維新でどんな役割をしていたのか、なかなかすぐには出てきません。

そんな影の薄い現在の佐賀県、肥前藩の藩主・鍋島直正を再評価します。

 

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17歳で藩主になる!?鍋島の生い立ちと略歴。

(佐賀城本丸御殿 提供:写真AC)

現在、東京千代田区のオフィス街にある日比谷公園は、都会のオアシスとして都民に親しまれていますが、江戸時代末期、この近辺は各藩の大名屋敷が立ち並び、鍋島直正が生まれ育った佐賀藩邸は日比谷公園の一角に位置していました。

幼少期の鍋島直正の朝は、日課である肥前藩の藩祖・直茂、初代藩主・勝茂の遺訓を周りの人間に読ませ耳で覚えることから始まりました。鍋島直正は幼少期から歴代の肥前藩主の年譜や遺訓を学ぶことが重要だと考えていたことがわかります。

 

また、佐賀藩は長崎警護を務めていたため、独自のルートで海外情報を入手することが可能でした。鍋島直正は江戸で生まれ育っていますが、幼い頃から長崎を通じて得ることができた最新の海外情勢に触れていました。

肥前藩主に就任した鍋島直正には、長崎警護という重要な使命がありました。幕府の直轄地(天領)の長崎の警護には、肥前藩と福岡藩が交代で割り当てられていました。

 

そのため佐賀藩の役人や商人は、長崎の出島では相応の権力を持っており、海外の情報や物品を独自に収集することができるという利点がありましたが、長崎警護には大きな経費がかかりました。

肥前藩新藩主鍋島直正は、佐賀へ到着後、すぐに長崎へ視察に行きました。
出島に投錨中だったオランダ船に乗船し、船内を見て回りました。
実際にオランダ船に乗船したことで、肥前藩の軍事力の低さを痛感します。

 

肥前藩の軍備を整えるためにも、資金を捻出するために藩の財政再建が急務でしたが、前藩主やその家臣たちの反対から、当初は思うように財政再建策を打ち出すことができませんでした。鍋島直正が実施したのは倹約奨励程度でした。

藩主就任後から3年後、藩庁として使っていた佐賀城二の丸が全焼するアクシデントをきっかけに、鍋島直正は改革を実行していきます。

 

■鍋島直正の財政改革

鍋島直正は藩庁の経費削減を実施します。

藩の役人の1/3に相当する420人を解雇したのです。
その一方で、経費削減による解雇劇の裏側で、鍋島直正は身分に関わらず有能な人材も登用しています。

それから江戸藩邸にかかる諸経費を大幅削減し、参勤交代の規模を縮小し、経費削減を徹底します。鍋島直正は殖産興業にも力を入れました。

お茶や石炭の製造・採掘を促進し、交易も活発にし、増収を増やしました。とくに、現在でも佐賀県は焼き物で有名ですが、鍋島直正は磁器の製造も推し進めました。

改革を実行するために、鍋島直正は幕府から2万両を借り受けています。
一般の商人から借りるよりも、幕府から借りた方が低金利だったのです。

肥前藩を取りまとめる20代の若き藩主は、重臣たちに「一丸になろう」「腹を割って話そう」と何度もメッセージを呼びかけました。

こうしてひとつにまとまった肥前藩は、鍋島直正が打ち出した税制政策によって財政状況が改善されていきました。

 

■激動の時代を巧みにサバイバルした肥前藩。

(北海道開拓本庁 肥前輩出の島義勇が活躍。 提供:写真AC)

肥前藩では藩主鍋島直正が、ペリー来航前から長崎警備を目的に、自藩で最新式の西洋軍事技術を開発・導入していきます。

一方、ペリーの来航を皮切りに、日米和親条約、日米修好通商条約が締結され、諸外国とも条約が結ばれていく中、鍋島直正には幕府・朝廷から中央政治への参加を求められますが、いずれも一定の距離を置き、肥前藩の藩政に努めました。

幕末期、肥前藩は藩主の鍋島直正が幕府・朝廷、どちらにつくこともなく距離を保ったことにより、見方によっては明治新政府で肥前藩出身者が薩摩・長州・土佐出身者に比べ力を持つことができなかったとも言えますが、肥前藩からは大きな犠牲者を出すことなく新しい時代を迎えています。

 

戊辰戦争から肥前藩は自藩で開発・製造した最新鋭の軍備で活躍し、明治時代には薩長土肥に名を連ね、中央政界に多くの人材を輩出しました。

明治2年には蝦夷開拓総督を命じられ、以前函館奉行近習として蝦夷地に赴いた経験があった島義勇を蝦夷地の開拓にあたらせました。後に、島義勇は「北海道開拓の父」と呼ばれます。

鍋島直正は蝦夷地へ赴任することなく、大納言に転任しましたが、財政状況が逼迫していた新政府にかわって、戊辰戦争での褒賞金の多くを蝦夷地開拓の費用にあて、佐賀藩から多くの移民を送りました。

明治4年、鍋島直正は自身が誕生した佐賀藩邸で病気のため亡くなりました。58歳でした。

 

ロシアのプチャーチンが長崎に来航した時、鍋島直正は自ら現場に赴いて、警備にあたっていた佐賀藩兵たちに「ロシア船が佐賀藩の警備に委縮している」と幕府役人から聞いた話を伝え激励しました。

「下支えをしている現場を知ることを大切に」という、幼いころから学んだ鍋島直茂の遺訓をよく実践していたことがうかがえます。そのため、鍋島直正は下級藩士からも厚い信頼を寄せられており、薩摩の島津斉彬に並ぶ名藩主と言えるのではないでしょうか。

 

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こんなにもある!鍋島直正の功績。

(徳川斉彬と弘道館 提供:写真AC)

肥前藩は幕府より長崎警護という重要な「家職」を与えられ、そして鍋島家は外様大名であり中央政界ではなく地方自治にまい進すべきである。

政局がめまぐるしく展開される幕末でも、鍋島直正は自藩、そして自身のポジションを貫き通しました。そんな幕末史の裏舞台で、鍋島直正は様々な功績を残していたのです。現在にも影響を与える鍋島直正の功績をご紹介します。

 

教育改革の一環として、鍋島直正は藩校「弘道館」の移転・拡張を行いました。当時の肥前藩では慣例であった世襲制の役職も廃止し、藩校出身の優秀な人材を次々に登用しました。

「佐賀の七賢人」と呼ばれる、日本の近代化に貢献した偉人たちは、鍋島直正をのぞいて、6人すべてが弘道館の出身です。佐野常民は日本初の蒸気機関車模型を完成させ、後に日本赤十字社を立ち上げます。

島義勇は蝦夷地の開拓に大きく貢献、副島種臣は外務大臣として活躍、大木喬任は文部科学大臣として学制を作りました。

 

江藤新平は新政府で初代司法卿となり、日本の法律や裁判制度の確立に貢献しましたが、佐賀の乱を指揮して処刑されました。早稲田大学の創始者である大隈重信は、内閣総理大臣を二度務めています。

藩士の子弟全員に義務教育として教育をいきわたらせました。また、当時は当たり前であった世襲制の役職も廃止、藩校で育った有能な人材を抜擢していきます。この弘道館が輩出し、後に佐賀の七賢と呼ばれるのが江藤新平と大隈重信です。

 

■科学技術の発展にも寄与。

当時、天然痘は不治の病として日本の人々に恐れられていました。肥前藩内で天然痘が大流行すると、鍋島直正は天然痘のワクチンをオランダから取り寄せ、4歳の息子に摂取させます。

ワクチンの接種に成功すると、大坂の緒方洪庵や、解体新書で知られる杉田玄白にワクチンが分け与えられ、以後急速に全国に普及し、天然痘を根絶に大きな貢献を果たしました。

そして国内初の実用蒸気船「凌風丸」を自藩で建造することに成功するなど、肥前藩の近代化が推し進められますが、鍋島直正の功績として取り上げることが最も多いのが「反射炉」の製造に成功したことでしょう。

最新式のアームストロング砲を製造するには、「鋼」を精錬する必要がありましたが、当時の日本では強度の高い鋼を精錬するための「炉」がありませんでした。そこで鍋島は西洋式の「反射炉」を自藩で建設することにしました。

 

オランダから入手した専門書「ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」の翻訳・解読にはじまり、新型青銅砲の鋳造技術を持ち込み、藩内の鋳造技術者や伊万里焼の職人をも導入し、反射炉の建設とアームストロング砲の製造に身分に関係なくチーム一丸となって取り組みますが、何度も失敗した記録が残っています。

現場の責任者は反射炉の完成は不可能と判断し、鍋島直正に何度も責任を取るために切腹を申し出てますが、そのたびに説得をして反射炉の建設が続けられ、1853年に反射炉の建設からアームストロング砲の製造まで成功しました。

反射炉の建設に要したのは3年でしたが、専門書の翻訳・解読、専門の知識や技術を持ったメンバーの育成など、全体的にみると10年以上もの歳月がかかりました。

反射炉の建設のために、蒸気機関の研究も同時に行われましたが、この研究成果は明治時代になって活用されることになりました。

高校日本史にも登場。均田制の内容と成果。

(提供:写真AC)

肥前藩では有田・伊万里焼きなどの生産販売で裕福になった商人や豪農が多数出現、農用地の所有を拡大し、農民を小作人化していきました。

この深刻な社会問題に、鍋島直正は小作料の猶予を打ち出し、農商兼営の禁止を命じ、農民の小作人化に歯止めをかけました。

そして肥前藩が土地を回収し、所有土地の面積に応じて地主に一部を返還し、残りの土地を小作人に分配する均田制を行いました。

鍋島直正による均田制をはじめとした一連の農村改革によって、小作農化していた農民たちが自作農に立ち戻り、活発な農業生産が行われるようになりました。

鍋島直正の名言と辞世の句。

「天下に先んじて憂い、天下に遅れて楽しむ」

先に苦労することの必要性は、後に楽しむことにあるという鍋島直正の言葉は、薩摩藩や長州藩よりも先んじて近代化を推進した肥前藩の姿勢そのものではないでしょうか。

現在、佐賀市内にある鍋島直正の銅像は、当時建設された反射炉が台座のモチーフに使用されています。鍋島直正は反射炉の上から佐賀の人々を見守っています。

 

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