(提供:写真AC)

上杉謙信の軍師・宇佐美定満。直江兼続は有名ですが、定満もなかなか好まれています。謙信に反抗した長尾政景を成敗したと伝えられていますが、わからないことがたくさんある謎の人物で、調べてみると「あれれ?」となってしまうようですね。

 

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軍師・宇佐美定満のプロフィールと実績。


(提供:写真AC)

1489年生まれという宇佐美定満について、父親は宇佐美房忠とも宇佐美越中守孝忠ともいわれています。初っ端から謎ですね。とにかく定満は上条上杉家の家臣として、上杉定実・長尾為景と戦ったらしいのですが、ここでも為景に降伏して仕えた異説があります。

その後、長尾晴景と、その子の景虎(後の謙信)に仕え、いくつかの功績を挙げたと記録にはあります。川中島の戦いでは武田軍の参謀・山本勘助の策を見破って危機を回避したのが定満だそうです。

越後流軍学の祖とされているのですが、これもどうやら江戸時代に創作されたものらしく、またまた「???」です。こうして見ていくと、凄いようでどうということもない経歴です。

その割にフィクションでもてはやされるのは、長尾政景との戦いの印象が強いからなのでしょう。次項でどんな戦いだったか詳しく説明します。

景虎に反抗的な長尾政景を誅殺?


(長野県にある野尻湖 提供:写真AC)

現在の新潟県南魚沼市にあった坂戸城に、謙信とは遠縁にあたる長尾政景がいました。謙信が家督を譲られたことを不満に思い、反抗しましたが、すぐに鎮圧されてしまいます。

以後は謙信に従い、いろいろと意見しています。そこまで反抗的だったとも思えませんが、一方の勢力であったことは間違いないようです。

この頃、80歳に近かった定満は、謙信の命で野尻湖での舟遊びに政景を誘い、その命と引き換えに政景とともに入水し、二人とも命を落としたというのです。老い先短い定満が最後のご奉公とばかり、主君の政敵を道連れにした命を懸けた忠誠としてフィクションでは好まれるようです。

 

歴史ファンならずとも涙誘われるシーンですが、これにも「船の上で酔っ払って落ちただけ」という説があります。流した涙を返せよ……です。

実は定満、これ以前に亡くなっていたのではないかとも言われていますが。この舞台となった野尻湖すら、長野県の野尻湖なのか、坂戸城近くにあった池なのか、湯沢町の大源太湖なのかはっきりしないのです。初めから終わりまで、宇佐美定満という人はよくわかりません。

 

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子孫の宇佐美定祐が『越後流軍学』の創作。

(提供:写真AC)

江戸時代、宇佐美定祐という人がいました。定満のひ孫なのですが、よくわからないのに凄かったみたいな宇佐美定満伝説は、どうやらこの定祐が拵えたものと考えられます。

17世紀半ば、武田信玄流の軍学が非常に人気がありました。定祐はそれに対抗してライバル上杉謙信流の軍学を発表。さらに定満をモデルにした宇佐美定行なる軍師を創作し、まるで自分の曽祖父が上杉家の最大功労者のように仕立ててしまったのです。

伝えられている定満伝説は、全部ここが発端となっているようです。定満の手紙に「自分がダメで部下が困っている」「土地を与えられていない」と書いてあるので、ここから判断すると定満は重臣ではなく会社の支店長くらいの立場だと思われます。

定祐の「俺のひいじいちゃん、スゴかったんだぜ」の嘘武勇伝が、現在まで伝わるとは怖ろしい話です。歴史ってどこまで信じられるのでしょう?

 

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