生き馬の目を抜くような戦国時代には、虚勢も大切でしょう。ガッツく人が多かったわけですが、今回紹介する毛利隆元は謙虚過ぎた武将です。でも、そんな時代だからこそ、度を過ぎた慎重さが利になることもあるようですね。

 

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無才覚無器量と自称するネガティブぶり。

1523年、隆元は中国地方の英雄・毛利元就の長男として誕生しました。とはいえ、この頃の元就は力のない地方の城主で、周防を支配していた大内義隆に従属していました。隆元は人質として大内家に送られることになります。

義隆には可愛がれ、豊かな教養も身につけたのですが、どうも自分を卑下してしまう人だったらしいです。残された手紙には「自分は生来、無才覚無器量である」「弟にのけ者にされている」「歩み寄っても避けられる」と陰気な文章ばかり書かれています。内容も自嘲的なのが多く、元就からも「隆元はあかんなぁ」と思われていたようです。

父が偉大だったため、性格が卑屈になる二代目というのは世に珍しくなく、隆元もそんなタイプだったのかもしれないですね。

月山富田城の戦いで戦下手と叱責を受ける。

隆元は毛利家に戻りますが、二人の弟、吉川元春と小早川隆景とも折り合いが悪かったそうです。武勇の元春、知略に長けた隆景から見れば、ネガティブ隆元が長男というだけで跡継ぎとされるのは面白くなかったのでしょう。

1540年に月山富田城の戦いで大内・毛利連合は出雲の尼子に大敗します。その腹いせもあったのか、元就は初陣だったらしい隆元を叱責したそうです。

「武略・計略・胆力が武士には大事。教養は現実は役に立たぬ」という元就と、芸を愛する教養人の隆元は、とことん相容れない関係だったのでしょう。

その後、元就の隠居を機に家督を譲られるも、実権は元就が握り、隆元はほとんど部下扱いだったそうです。

 

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厳島の戦いでは奮戦。大内義隆の仇を討つ。

月山富田城の戦いで大敗した大内家は力を失い、当主の義隆が陶隆房に討たれてしまいます。隆元を可愛がってくれた義隆の死に、さすがの隆元も強気を見せます。

安芸を牛耳っていた元就が戦力差を理由に慎重になるのを「陶はいずれ攻めてくる!ここでやらねばどうする!」と焚きつけ、毛利軍は陶軍と厳島で激突。

隆元は珍しく策を巡らし、暴風雨に怯える毛利軍を発奮させるために敵船に真っ先に乗り込む大活躍を見せるのです。陶隆房を滅ぼし、隆元は武士らしく仇を討ったわけです。やればできるじゃないか、隆元殿!

政治家としては優秀。法制と財政を強化。

厳島の戦いで勝利した毛利は、中国地方の支配を懸けて、再び月山富田城で尼子と争います。戦線へ向かう途中で隆元は急死します。食中毒といわれていますが定かではありません。元就はその死を悼み、弔いの戦であると軍を奮起させ、尼子を降伏させます。

元就は今際の床に三人の息子を呼び、三本の矢の話をしたことで有名ですが、長男の隆元が先に死んでいるので、その逸話も後世に作られたものか、もっと前の話だったかでしょう。

性格はウジウジ、死に方もパッとしなかった隆元はずっと「落ちこぼれ」のように評価されてきました。しかし、生前の隆元は行政制度を一新し、法を定め、外交をまとめ、財政を正したことがわかっています。事実彼の死後、毛利家は深刻な財政苦に追い込まれました。

吉田松陰も「隆元は素行よく、勇気があり、仁孝篤い良将だった」と評しています。近頃では「ネガティブ隆元、汚名返上」なのです。

 

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