(提供:写真AC)

●西郷隆盛は何をした人?サクッと1分で解説。

鹿児島のシンボル桜島は、現在では大隈半島と陸続きですが、西郷隆盛が生きていた時代は、その名のとおり島でした。

桜島を擁する薩摩藩に生まれた西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士の家に生まれました。藩主・島津斉彬に見出され、庭方役として情勢探索と渉外工作に活躍するようになります。

しかし、島津斉彬の急死すると、奄美大島での蟄居を命じられるなど、不遇の時期を送ります。やがて、大久保利通や家老の小松帯刀に推挙され藩政に復帰します。

 

西郷隆盛は薩長同盟を実現して、倒幕運動の中心となりました。戊辰戦争では幕臣・勝海舟との会談にのぞみ、見事江戸無血開城を実現しています。

そのことから、現在では維新最大の功労者とまでうたわれています。

 

戊辰戦争終結後、地元薩摩へ戻った西郷隆盛は、政治とは無縁の生活を送ります。しかし中央政府から再三にわたり要請され、明治政府に出仕することになります。

明治政府では陸軍大将兼参議に就任し、政府の主要メンバーが海外視察に出た時には、留守政府を主導します。西郷隆盛は征韓論を主導しますが、帰国した海外視察組は反対します。征韓論に敗れた西郷隆盛は、明治政府に辞表を提出し薩摩に帰郷します。

薩摩に戻った西郷隆盛は、私学校を設立します。しかし、新政府に不満を持つ私学校の生徒たちが暴走し、西南戦争を起こすことになります。

鹿児島城山籠城戦に破れ、被弾した西郷隆盛は自刃します。49歳でした。

 

さて、維新の功労者でありながら、逆賊の汚名を負って自刃した西郷隆盛。今回はその人物像、交友関係、業績、そして西南戦争で戦った理由をご紹介します。

 

スポンサーリンク

 

イメージ通りの「どっしり」体型だったのか?

(提供:写真AC)

出身地の鹿児島では「さいごうどん」と親しまれている西郷隆盛。

どっしりとした体つきに、太くてまっすぐな眉毛。そして大きな目元。
多くの人が白黒で描かれた「あの」肖像画をイメージするでしょう。

しかし、あの肖像画は、西郷隆盛本人をモチーフにして描いたものではありません。生前の西郷隆盛の肖像が存在していない為、死後にイタリア人画家キヨソーネが西郷隆盛の兄弟や知人に話を聞いて描いたのです。

この肖像画のイメージもあってか、西郷隆盛はどっしりとしたタイプと思われることも多いようですが、実際はどうでしょう?

 

結論から言うと、西郷隆盛の外見は、肖像画のイメージでほぼ間違いないようです。西郷隆盛の夫人や親族は、肖像画の西郷隆盛を本物そのものだと証言しています。

また、当時の記録によると、西郷隆盛は身長180センチ、体重110キロと、とても立派な体格であったことも確認できます。西郷隆盛の外見は、まさに「どっしり」したタイプで間違いないのです。

西郷隆盛の性格の良さを示すエピソード

さて、外見だけではなく、人間性も気になりますね。
そこで西郷隆盛の人柄がわかるエピソードを集めました。

西郷隆盛が20歳頃の話です。藩の仕事で地方をまわり、農家に泊った時のことです。夜中にトイレへ行くと、牛舎から泣き声が聞こえてきました。

(提供:写真AC)

その家は生活が苦しく、飼っていた牛を売らなければならず、別れを惜しんでいるところでした。そこで西郷隆盛は、一家に持ち合わせの金を与えると、奉行所に年貢を免除するよう頼みました。

また、西郷隆盛は出世してからも人間性が変わりませんでした。

 

明治政府に出仕し、高官と呼ぶにふさわしいポストに着いても、「おいどんはよかでごわす」と言って、決して威張ることはありませんでした。

政府高官時代の西郷隆盛の生活ぶりは質素なものでした。平時は紋服に小倉の袴、草履履きという装いで、出仕するときも下僕と徒歩で通いました。

月に500円という高額な月収をもらっていた西郷隆盛ですが、家賃に3円、生活費は書生たちの分もふくめて15円あれば暮らすことができました。

そのため、残りの給料は大蔵省に返還を申し立てますが、これは受け入れられませんでした。結局、給料の多くを皇居の修繕費や書生たちの学習費など、他者のために使いました。

 

■西南戦争後も、西郷人気は続いていた。

明治政府の勝利で幕を引いた西南戦争。しかし、巷では西郷隆盛を描いた錦絵が堂々と売られました。さらに宮内省と江戸をはじめ、全国の市民2万5千人からの寄付によって、東京の上野に西郷隆盛像が建てられました。

この銅像は「上野の西郷さん」として100年以上がたった現在でも親しまれています。さらに明治天皇も西郷隆盛の死後わずか12年で恩赦を与え、官位を贈りました。

そんな西郷隆盛の座右の銘は「敬天愛人」。天を敬って人を愛するという意味です。これこそ、西郷隆盛という人物を表すのにふさわしい言葉ではないでしょうか。

島津斉彬との関係。西郷は島津の懐刀だった。

(島津斉彬像 出典:鹿児島市観光サイト)

■西郷に影響を与えた島津家の「お家騒動」

さて、西郷隆盛と関係の深かった島津斉彬について触れてみます。

時の薩摩藩主には嫡子の島津斉彬と、庶子の島津久光という2人の男子がいました。この嫡子と庶子をめぐる「お家騒動」で、島津斉彬の家臣の多くが厳しい処分を受けるという事態になります。

西郷隆盛の父・吉兵衛は、この時処分を受け切腹した赤山靱負の御用人でした。西郷隆盛は幼少期から赤山靱負から大きな影響を受けて育ちました。

吉兵衛から赤山靱負の見事な切腹の様子を聞くと、涙を流し、赤山靱負の意思を継ぎ、島津斉彬に忠誠を誓うことを決意します。

 

■西郷の才能を見出した島津斉彬。

お家騒動から紆余曲折を経て、島津斉彬はついに藩主に就任します。

のちに、島津斉彬は薩摩藩の富国強兵につとめた名藩主と評されます。藩の下級役人となった西郷隆盛は、島津斉彬に意見書を出したことで見出されます。

西郷隆盛は「庭方役」、通称お庭番と呼ばれる仕事を命じられます。当時では下級藩士が藩主に謁見するには、面倒な手続きが必要でした。島津斉彬は西郷隆盛を高く評価していました。なので藩主に直接会って指示を出すことができる庭方役に命じたのです。

 

それ以来、西郷隆盛は島津斉彬から直接、政治や諸学の手ほどきを受けるようになり、やがて藩政にたずさわるようになります。

後に「斉彬公が西郷どんを呼んでお話をなさる時は、たばこ盆をお叩きになる音が違った」と伝えられていることからも、2人の主従関係がどれほど強いものだったのか想像できます。

 

西郷隆盛は島津斉彬の指示のもと、まさに手となり足となって、情勢探索と渉外工作に活躍します。しかし庭方役に取り立てられてから4年後、島津斉彬が急死します。

訃報を聞き、西郷隆盛は島津斉彬の墓前で殉死すべく、滞在する京都から薩摩へ帰郷することを決意します。

しかし、西郷隆盛とともに朝廷内の工作を行っていた月照に、生きて島津斉彬の意思を継いで働くべきであると説得され、思いとどまりました。

 

■再び、自死しようとした西郷。

しかし島津斉彬が急死したことで、薩摩藩では前々藩主の斉興が藩政の実権を握るようなっていました。島津斉彬が押し進めた薩摩藩の近代化は、斉興によって旧体制へと逆戻りしていました。

西郷隆盛は安政の大獄によって危険にさらされている月照の保護を藩に訴えましたが、相手にされませんでした。薩摩藩サイドは月照を庇っては幕府に目を付けられることを危惧していました。

 

島津斉彬が押し進めた近代化はかなわず、月照の保護も受け入れられず、西郷隆盛は絶望し、月照とともに錦江湾(鹿児島湾)に身投げします。月照は亡くなりましたが、西郷隆盛は一命をとりとめました。

西郷隆盛は少年時代から島津斉彬に強い忠誠を誓っています。

その島津斉彬直々に取り立てられ、さらに政治について教えられ、その後も手となり足となり奔走した西郷隆盛は、まさに島津斉彬の「懐刀」であったに違いありません。

 

スポンサーリンク

 

無二の親友・大久保利通。二人の友情を示すエピソード。

(提供:写真AC

薩摩藩出身の大久保利通は、島津久光に見出され、プレーンとして活躍します。倒幕の中心人物であり、新政府建設の先駆者として、明治政府を指揮しました。

大久保利通と西郷隆盛の父親は親しい仲でした。大久保家と西郷家は近所にあって年頃も近かったことから、2人は竹馬の友として育ちました。

しかし共に倒幕を実現し、新政府が発足するも、2人の政治の考え方には大きな違いがあり、征韓論を発端に西郷隆盛が政府を去ったことで、完全に袂を分かつことになった……と一般的に言われていますが、実際のところは少し違ったようです。

 

西南戦争で西郷隆盛が蜂起したことを聞いた大久保利通は、西郷隆盛の本心ではないとすぐに確信しました。自らが西郷隆盛のもとへ交渉に出向きたいと閣議で申し出ています。

この頃、西郷隆盛は大久保利通に手紙を出しています。手紙には、敵だからといって手を緩めず、思う存分にやってくれといったことが書かれていました。

大久保利通は西南戦争で政府の討伐軍を指揮し、西郷隆盛は城山で自刃して西南戦争は終結します。西郷隆盛死亡の報を受けた大久保利通はひどく悲しんだといわれています。

 

しかし、世間では大久保利通は独裁者としてのイメージが強まり、西郷隆盛が亡くなった翌年に、元士族たちの手によって暗殺されます。

大久保利通が亡くなった時、西南戦争時に届いた西郷隆盛の手紙を所持していたと言われています。

また、逆徒の汚名を背負って死んだ西郷隆盛の名誉回復のため、大久保利通は知り合いに西郷隆盛の伝記の執筆を依頼しています。この時、大久保利通は自分で書こうと思ったが、文才がないので依頼したと語ったそうです。

 

■お金にキレイだった大久保。

そして、大久保利通の死後に明らかになったのは、金銭に対し潔白であったことです。これは独裁者としての一般的なイメージとはかけ離れたものでした。

予算の目処が立たない公共事業などには、私財を投じることもしばしばで、8000万円もの借金が残っていたそうです。

しかしこの借金の返済を迫る者はいませんでした。生前の他方への大久保利通の寄付金が回収され、借金は返済されます。さらに集まった募金で大久保利通の遺族は養われました。

袂を分かったように思われた2人ですが、明治政府からの給料を他者のためにつぎ込んでいることからも、根底にあるマインドは同じだったのでしょう。

西郷隆盛と大久保利通は、確かに強い友情で結ばれていたのです。

西郷隆盛の業績。薩長をまとめ、倒幕派の求心力となる。

(提供:写真AC)

■薩長の連携をはかり、倒幕の求心力を生み出した。

島津斉彬の死後、薩摩藩から2度にわたって島流しを命じられ、大久保利通などの推挙で西郷隆盛が藩政に戻ったのは八月十八日の政変の後でした。

八月十八日の政変は、薩摩藩をはじめとした公武合体派が朝廷、および京都から長州藩を追放したクーデーターのことです。これに対し、朝廷での復権のため、長州藩が再び京都へ出兵してきます。

薩摩藩の軍司令官を任じられた西郷隆盛は、禁門の変で戦功をあげます。薩摩藩だけでなく幕府からも才覚を認められ、第1次長州征討では参謀というポジションを任されます。

 

この時、西郷隆盛は幕府の軍艦奉行、勝海舟と面会します。海軍出兵の要請のために訪問した西郷隆盛ですが、勝海舟から「すでに幕府は外国の言いなりで弱体化している」と聞かされます。

さらに「力のある藩が合議して国政を取り仕切る共和制の政権を立ち上げるべきである」と勝海舟に説かれるのです。

その結果、第1次長州征討では長州藩に対し自発的に降伏を促し、長州藩を存続させるよう動きました。

 

西郷隆盛のとった行動は、のちの薩長同盟の実現へのステップになります。

薩摩藩内の意見を取りまとめるのはとても難しいことだったようですが、薩摩藩を代表して長州藩の桂小五郎と会談した西郷隆盛は、薩長同盟を結ぶことに成功します。これは前述の行動から、西郷が信頼を得ていたからです。

第2次長州征討では薩長同盟によって薩摩藩から提供された武器で万全の準備を期した長州藩は、みごとに幕府軍を退けます。

 

以後、薩摩藩と長州藩は、西郷隆盛や桂小五郎を中心に力を合わせ倒幕を主導します。戊辰戦争では東征大総督府下参謀として倒幕軍を指揮。幕臣・勝海舟の会談に応じ、西郷隆盛は「江戸無血開城」も実現させたのです。

西郷隆盛がいなければ、薩摩藩と長州藩が手を結ぶことは難しかったのではないでしょうか。また、江戸無血開城も、西郷隆盛なくして成立しなかったと考えられています。

このように西郷隆盛の存在は、大きく歴史を動かしました。
やはり、西郷隆盛は日本史の大スターで間違いないのです。

西南戦争を起こした理由とは?

(西南戦争の戦場にもなった熊本城 提供:写真AC)

 

■西郷隆盛が明治政府と決別した理由。

西南戦争に至る経緯をおさらいしましょう。西郷隆盛が明治政府を去るきっかけになった原因に「征韓論」があります。

征韓論と書くと、あたかも武力で朝鮮を征するととれますが、西郷隆盛が考えていた征韓論の意味合いは違いました。

 

新政府の課題のひとつにロシアの存在がありました。朝鮮半島は日本にとって対ロシアの防衛前線だったのです。

鎖国下にあった江戸幕府も、朝鮮とは交易を続けていました。新政府も交易を続ける為に国書を送っていますが、様々な理由から朝鮮側は受け付けず、事実上国交が断絶されている状態でした。

当時、大久保利通や木戸孝允(桂小五郎)は、外遊に出ていました。西郷隆盛は2年に渡り、留守政府を主導していました。

 

西郷隆盛はもう1度、朝鮮の形式に則り使節を派遣して、説得に当たるべきだと唱えました。

朝鮮の文化では、江戸時代の朝鮮通信使同様、平時であっても大名行列さながらに、大使節団を組んで向かわなければ、自国が軽視されていると思われてしまいます。そのため西郷隆盛が唱えた朝鮮への使節派遣は、相当な経費がかかるものでした。

西郷隆盛は失業して貧窮している旧士族たちで使節団を構成し、この時の給金を元手に生活基盤を築いてもらいたいと考えていました。

 

西郷隆盛は自らが大使として朝鮮へ赴くことを提案して、閣議での決定を経て明治天皇の裁可も得ます。

しかし帰国した大久保利通や木戸孝允は、これに反発して明治天皇の裁可を覆します。征韓論に敗れた西郷隆盛は、辞職して薩摩へ帰りました。

この時、多くの薩摩出身者が辞職して西郷隆盛に従おうとしましたが、西郷隆盛は中央政府で働いた方がいいと思う者に対しては、言い含めて東京に残しました。

 

■全国の武士の不満が爆発。

薩摩へ戻った西郷隆盛は、私学校を設立します。東京から西郷隆盛に従った者たちはもちろん、職を失ってしまった旧士族の若者たちも参加します。
ここで西郷隆盛は若者たちに勉強や武術だけでなく農業まで幅広く教え、後進の育成に努めました。

しかし、日本各地では、職を失ってしまった旧士族たちが、各地で反乱を起こしていました。そうした状況下、政府は鹿児島の動きを注視していました。

政府は鹿児島にある武器や弾薬を大阪に移送することを決定しました。武器・弾薬の移送に不満をもった私学校の生徒たちは陸軍の火薬庫に奇襲をかけます。さらに鹿児島市内の火薬庫を襲うという暴挙に出てしまいました。

これには西郷隆盛も「ちょしもた(しまった)!」と言ったといいます。

 

しかし、西郷隆盛は、生徒たちを捕えて政府に引き渡すという非情なことはしませんでした。この事件をきっかけに、西南戦争が勃発するのです。

新政府は士族から刀と財産だけでなく、武士の魂までも奪っていたのです。

西郷隆盛は近代化は必須条件と認めつつも、日本の心を忘れてはならないと考えていました。西郷隆盛は、西南戦争を通して、強引に近代化を推し進める現在の明治政府のやり方に疑問を投げかけたのです。

 

西南戦争で自刃。地元に伝わる伝承とは?

(西郷隆盛の墓 提供:写真AC)

 

西郷隆盛は桜島を望む南洲墓地に2千23人の同志と眠っています。現在でも「西郷どん」の墓前で手を合わせる人がたくさんいます。

西郷隆盛の墓に並んで建っているのが、桐野利秋の墓です。

 

桐野は薩摩藩の下級武士の家に生まれ、農作業をして家族を養った苦労人の桐野利秋は、島津久光の上洛を聞きつけ、自ら育てたサツマイモを3本持って、上洛の供に加えてほしいと、西郷隆盛に頼み込みました。

西郷隆盛は本人が苦労して育てたサツマイモには誠意がこもっている。これ以上のみやげなどないと言って、桐野利秋の頼みを聞いたというエピソードが残っています。

 

それ以来、桐野利秋は西郷隆盛の右腕として維新に貢献しました。

会津戦争に貢献した桐野利秋は、会津城受け取りの大任を果たします。城内の会津藩士たちの姿に、涙を流したと伝わっています。

誠心誠意会津の戦後処理に務めたことから、後に会津の松平容保公から感謝の気持ちを込めて刀が送られています。このような桐野利秋の一面は、西郷隆盛を彷彿とさせます。

 

維新後は陸軍少将の地位に就きましたが、西郷隆盛の辞職にともない、辞職してともに薩摩へ戻ります。

西郷隆盛が設立した私学校では、若者たちに農作業を教えました。そして西南戦争では西郷隆盛とともに戦い、従兄弟の別府晋介の介錯によって西郷隆盛が自刃を果たすのを見届けた後、自らも被弾して亡くなりました。

 

ちなみに、西南戦争があった1877年に火星の大接近がありました。

そのため、空に真っ赤に輝く星があらわれたのです。当時の人々はこれを「西郷星」と呼んだそうです。

同時に火星の近くにあった土星を、最期まで添い遂げた「桐野星」と呼んだそうです。現在でも鹿児島で知られている伝承です。

 

スポンサーリンク