(上野公園 西郷隆盛像 提供:写真AC)

西南戦争から140年、西南戦争で明治政府に反旗を翻し、日本史上最後の士族反乱を主導した西郷隆盛は「西郷どん」と呼ばれ、今では地元鹿児島ばかりでなく、多くの日本人に愛されています。

現在の鹿児島県にあたる薩摩藩出身の西郷隆盛は、薩長同盟の締結、江戸無血開城の実現など、倒幕運動を牽引しました。現在では維新最大の功労者と言われています。

なぜ、西郷隆盛は維新最大の功労者と言われながら、士族反乱を起こし、明治政府と戦ったのでしょうか。

今回は日本史上最後の士族反乱「西南戦争」を、原因や戦場となった場所、士族側の中心人物まで解説します!

 

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西南戦争が起きた理由。時代に見捨てられた武士が反乱を起こす。

(提供:写真AC)

明治4年の新聞には「ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」の有名な文言が掲載されていたようでしたが、旧士族をはじめ、多くの庶民や農民たちは江戸時代の方がよっぽどましだったと不満を募らせていました。

新政府内では早くもポスト争いが勃発、政府の役人は豪華な邸宅に暮らし、贅沢な生活を送るようになりました。権力を振りかざす役人は、民衆に対し横暴な態度をとりました。

 

一方、倒幕の中心人物だった西郷隆盛ですが、戊辰戦争終結後、明治政府への出仕を辞退して、故郷の鹿児島へ帰国しました。

政府首脳部の大久保利通は、鹿児島にいる西郷隆盛に出仕を要請します。新政府の危機的状況に、西郷隆盛は他のメンバーから1年以上遅れて新政府に合流することになりました。

明治政府では陸軍大将兼参議のポストに就きますが、後に明治6年の政変と呼ばれる、征韓論を発端とした反征韓論派が画策した明治天皇までを巻き込む政府内クーデターによって、西郷隆盛をはじめとした征韓論推進派が総辞職し、中央政権から退くことになりました。

この明治6年の政変では、鹿児島へ戻る西郷隆盛に従い、薩摩藩出身者を中心に600人もの役人、軍人がいっせいに辞職して鹿児島入りしました。

 

■約40万人の士族が職を失う

西郷隆盛が鹿児島に戻って間もなく、明治政府は「秩禄処分(ちつろくしょぶん)」を実施します。版籍奉還、廃藩置県によって、国内では約40万人の士族が失業者となりました。

帯刀という士族特有の特権の他、秩禄(武士の給料)も支給されていましたが、徴兵令によってすでに軍事力としての存在意義も失われていました。

廃刀令がその事実を象徴しています。明治政府から廃刀令が発布され、まず士族から刀が奪われました。

 

さらに、財源確保に追われる明治政府では、士族に支払われる秩禄が全体の歳出の3分の2という巨額におよんでいました。これに対し、民衆からも秩禄をカットするべきという声が上がりました。

そこで政府は秩禄の支給を停止しました。これが秩禄処分です。

当面は生活が成り立つように政府から支援があり多くの士族が事業を興して商売を始めましたが、「士族の商法」と揶揄されるように、慣れない商売に失敗し借金を背負う者が後を絶ちませんでした。

そしてついに、不満を募らせた士族が、各地で反乱を起こしました。

 

■西郷隆盛「私学校」を設立。

(鹿児島県 桜島 提供:写真AC

薩摩へ戻った西郷隆盛は、旧薩摩藩の居城跡地に「私学校」を設立します。

私学校は西郷隆盛とともに帰郷した大勢の明治政府の元役人・軍人をはじめ、鹿児島の旧士族の若者たちを教育するため、「尊王と民衆への慈悲」を掲げて設立されました。

西郷隆盛は薩摩の旧士族の若者達の武装蜂起を抑えること。そして今後の日本に必要な人材となるよう育成することを私学校の目標としていました。

 

しかし、明治政府の中心人物である大久保利通は、鹿児島で拡大する私学校勢力を警戒するようになります。

鹿児島県内には、かつて薩摩藩が富国強兵のために作った集成館で製造された日本製の武器・弾薬が多く保管されていました。

この武器・弾薬が事態の発端となります。

鹿児島の動きを警戒した大久保利通は、県内に密偵を送り込みます。そして大久保利通の指示で、密かにこの武器・弾薬を大阪まで運び出そうとしたのです。鹿児島県内に武器・弾薬を置いておけば、いずれ私学校の幹部や生徒の武装蜂起に使われる可能性があると考えてのことでした。

 

■私学校の生徒が激怒!暴挙に出てしまう。

このことに私学校の幹部や生徒は憤慨します。そして、県内にある政府海軍の弾薬庫を襲って武器・弾薬を強奪するという暴挙に出ます。

これには鹿児島城下を離れていた西郷隆盛も「ちょっしもた(しまった)!」と言ったといいます。

それでも西郷隆盛は自重を促しますが、捕らえた政府の密偵が、西郷隆盛の暗殺を企てていたことを自白すると、いよいよ私学校の幹部と生徒たちの怒りは収まりがつかなくなってしまいました。

決して政府に対し士族反乱を起こす考えはありませんでしたが、西郷隆盛は私学校の幹部と生徒たちを束ね、西南戦争を戦うことを余儀なくされたのでした。

 

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旧士族側の中心人物。西郷隆盛と共に戦った男たち。

(熊本城 提供:写真AC)

それでは、西南戦争で西郷隆盛と共に戦った、旧士族側の中心人物「桐野利秋」、「村田新八」、「別府晋介」の3人をご紹介します。

■最期まで添い遂げた桐野利秋

薩摩藩の下級武士の家に生まれ、農作業をして家族を養った苦労人の桐野利秋は、西郷隆盛の右腕として影ながら維新に大きく貢献しました。戊辰戦争では彰義隊との戦いで功績を残します。明治政府では陸軍少将になりました。

しかし、征韓論に敗れた西郷隆盛が辞職して鹿児島に帰郷すると、桐野利秋も職を辞して鹿児島へ戻ります。西郷隆盛が私学校を設立する際、桐野利秋は200石を拠出し協力しました。私学校では幹部のポジションでしたが、生徒たちに進んで農作業を教えていました。

西南戦争では旧士族側の司令官として奮戦します。城山の戦いで、西郷隆盛が別府晋介の介錯で自決するところを、桐野利秋は跪いて見届けたと言われています。

その後、桐野利秋は凄まじい戦いぶりを見せますが、銃弾に額を打ち抜かれ、ついに命を落としました。

 

■岩倉使節団の参加経験もある村田新八。

薩摩藩下級武士の村田新八は、西郷隆盛が生まれ育った加冶屋町の出身で、子供の頃から西郷隆盛に勉強を教えられたり、かわいがられていました。

倒幕運動でも西郷隆盛と行動を共にし、西郷隆盛が徳之島へ流刑に処された時、村田新八も喜界島への遠島を申し渡されます。

西郷隆盛が薩摩藩へ戻るとき、喜界島に寄って村田新八も連れて帰ります。

薩長同盟の実現を西郷隆盛の影から支えた他、長州藩の伊藤博文らに同行し、上海への外遊も果たします。

 

鳥羽伏見の戦いで活躍、戊辰戦争では主に西郷隆盛の護衛として付き従いました。維新後、鹿児島常備隊の砲兵隊長を務めていましたが、西郷隆盛の推薦で宮内省職員となりました。

その後、アメリカとの条約改正を視野に岩倉使節団の派遣が決まると、国際法にも詳しかった村田新八が加わります。

しかし、村田新八が日本に戻ると、すでに西郷隆盛は征韓論に破れ、鹿児島に帰郷していました。村田新八も政府の職を辞し、鹿児島に戻ります。

西郷隆盛の私学校では、幹部として生徒たちを監督しました。西南戦争では長男を失い、西郷隆盛の自決を見届けると、桐野利秋らとともに奮戦し戦死しました。

 

■桐野利秋の無二の親友・別府晋介

薩摩藩の下級武士である別府晋介は、桐野利秋の母方の従弟にあたります。2人はまるで本当の兄弟のように育ちました。

桐野利秋よりも3歳年下の別府晋介は、戊辰戦争で功績を残します。

西郷隆盛が征韓論を主張した時には、西郷隆盛の命令で朝鮮半島に赴き、2ヶ月も潜伏して内情調査をしました。このことからも、別府晋介は明治時代における西郷隆盛の右腕的存在であることが伺われます。

 

朝鮮半島から帰国後、別府晋介は少佐に昇進しますが、西郷隆盛の辞職にともない別府晋介も辞職して薩摩へ帰ります。

西郷隆盛の私学校設立に尽力し、西郷隆盛の推薦で鹿児島の加治木外四郷の区長になっています。

西南戦争では奮戦しますが、足にけがを負います。西南戦争終盤では歩くことがままなりませんでしたが、西郷隆盛が被弾すると、かごから降りて立ち上がり、「御免なったもんし(お許しください)!」と叫んで介錯しました。西郷隆盛が自決した後、別府晋介も自刃しました。

西郷隆盛と共に西南戦争を戦った男たちは、現在では桜島を見下ろす南洲墓地で、西郷隆盛とともに眠っています。

 

(西郷隆盛の墓 提供:写真AC

 

田原坂の戦い・吉次峠の戦い。警視抜刀隊との激戦となる。

(提供:写真AC

田原坂(たばるざか)は、熊本県熊本市の北区に位置し、西南戦争の古戦場として国の史跡に指定されています。田原坂は西南戦争最大の激戦地となりました。

旧士族軍は田原坂を占拠し、政府軍主力が攻撃、吉次峠で激戦になりました。旧士族軍は士気が高いのはもちろん、訓練を受けている兵が多かったことに対し、数では勝るものの、政府軍側は徴兵された経験のない兵も多く、当初は旧士族軍が押していました。

旧士族軍は天然の要塞である吉次峠の地の利を活かし、政府軍を駆逐します。そのため、政府軍は吉次峠からの突破をあきらめ、田原坂1本に的を絞ります。

 

旧士族軍は銃撃に加え、抜刀して攻撃しました。

これに政府軍はすぐさま太刀打ちできませんでしたが、政府軍の中には旧会津藩士など、剣術の実戦を積んでいる兵もいたことから、政府軍の抜刀隊を中心に盛り返してきます。

旧士族軍は弾丸が底をつき、兵力も不足し、田原坂から敗走を余儀なくされました。政府軍は旧士族軍を退けることに成功しますが、2400人もの死者を出す結果となりました。

激しい銃撃戦となった田原坂周辺では、今でも当時の銃弾が発見されます。

 

城山での激戦。西郷隆盛が自害するまで。

(西郷洞窟 提供:写真AC

現在の鹿児島市の中央に位置する城山。城山は小高い山です。その山頂からは、錦江湾と桜島を見渡すことができます。

この城山が、西南戦争最後の戦地となりました。山中の洞窟は「西郷洞窟」と呼ばれていて、旧士族軍の本部が置かれていました。

田原坂の戦い、吉次峠の戦いから8ヶ月後、可愛岳の戦いでこころみた反撃に失敗した旧士族軍は鹿児島に集結、城山を占拠しました。

 

しかし、その5日後には、鹿児島に上陸した政府軍が城山包囲網を敷きます。

政府軍の城山総攻撃がはじまると、旧士族軍は城山に立てこもりますが、城山の防衛拠点は次々に破られていきました。

城山の「西郷洞窟」の前に、西郷隆盛をはじめ旧士族軍幹部が整列し、岩崎谷をいっせいに駆け下りていきました。

しかし、西郷隆盛は800メートルほど下ったところで被弾します。

 

「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と西郷隆盛が言いました。旧士族軍幹部はそろって跪きました。西郷隆盛は襟を正し、遥か東の御所に向かって拝礼しました。

遙拝が終わったところで、別府晋介は「ごめんやったもんせ(お許しください)」と叫び、ついに西郷隆盛を介錯しました。

西郷隆盛の首は、政府軍に見つからないよう、その場で埋められたと言われています。

西郷隆盛の自刃を見守った旧士族軍幹部たちは、さらに進撃し、私学校の一角の塁に立てこもって戦いました。

 

西南戦争の歴史的な意義は?

(城山から望む桜島 提供:写真AC)

西郷隆盛の自刃をもって、西南戦争は幕を閉じました。薩摩の旧士族に加え、九州諸藩から集まった旧士族軍は、3万人にものぼりました。

西南戦争で徴兵された農民や町民を中心とした政府軍に、戦闘のプロであった武士が打ち負かされたことによって、ついに士族反乱は途絶えることになりました。

近代化を推し進めてきた政府軍は、西南戦争で有線電線や手旗信号や暗号といった新しい通信制度も導入しました。これらのシステムは西南戦争出大きく活躍しましたが、一方で改善点も見られました。

 

また、徴兵制によって集まった民間の兵たちの訓練にも、西南戦争で学んだ経験を活かして、様々な取り組みが行われました。

日本は1894年の日清戦争で勝利をおさめますが、西南戦争での経験があってこその勝利でした。日清戦争の司令官の多くも、西南戦争経験者でした。

 

西南戦争は700年続いた武士の世の終わりを告げました。

明治という名のとおり、本当の意味で、日本の夜明けを迎えたのでした。

 

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