(弘道館 提供:写真AC)

 

藤田東湖の著した「弘道館記述義」に身を奮い立たせ、「正氣歌」に涙する――幕末に活躍した多くの志士たちが、藤田東湖の存在に多大な影響を受けました。水戸藩の藩校・弘道館の建学精神を書き記した「弘道館記述義」は、水戸学の集大成として評価されています。

江戸時代初期、「水戸の御老公様」として親しまれる水戸藩2代目藩主・水戸光圀によって大日本史の編纂プロジェクトがスタート、このプロジェクトから発展した「水戸学」は、150年をかけていよいよ「弘道館記述義」という集大成まで到達したのです。

大日本史の編纂プロジェクトは、江戸時代後期になると「水戸学」として成立、「攘夷」の根拠となる儒教思想に、国学や歴史学、神道などが影響し、幕末の志士たちが掲げたスローガン「尊王攘夷」につながっていきます。

 

■日本人固有の道徳

「弘道館記述義」で、藤田東湖は当時の日本社会の道徳について、「古事記」「日本書紀」の日本神話にはじまり、日本史の観点から日本人固有の道徳について書き記しています。

藤田東湖は君臣上下、すべての人間が社会的責任を果たし「忠愛の誠」によって結ばれた社会を「国体」として、忠愛の誠をもとに日本の国民が職分を全うしていく道義が「天地正大の気」であるとしました。

幕末という時世に、「天地正大の気」を発揮して、国家の結びつきを強め、国内外からの危機を乗り切らなければならないと主張したのです。

まさに「弘道館記述義」は幕末の志士たちの自己啓発本とも言え、著者である藤田東湖のもとには吉田松陰、西郷隆盛、横井小楠、佐久間象山など、幕末に活躍する尊攘の志士たちが訪ねてきて、藤田東湖を交えて活発に議論を交わしました。

一方、藤田東湖が過酷な獄中生活の中で著した「正氣歌」は、藤田東湖の国を想う気持ちが漢詩で読まれていて、様々な困難に立ち向かう志士たちの励みとなりました。

 

スポンサーリンク

 

生い立ちと経歴。

(藤田東湖像 筆者撮影)

 

1806年、現在の茨城県にあたる水戸藩の学者藤田幽谷に嫡男となる東湖が誕生します。藤田東湖の父親幽谷は、水戸学藤田派を牽引する有名な学者です。

しかし、幽谷はもとは水戸城下の古着屋で、町人の身分でした。藤田幽谷は学才を認められ、大日本史編纂プロジェクトの一員に抜擢され彰考館で勤務します。そして後に正式に水戸藩士に取り立てられたのです。

 

藤田東湖が父・藤田幽谷に最初に教わったのは、儒学の考経でした。
5歳頃から儒学をはじめ、幽谷から様々な学問を教えられて育った藤田東湖は、学問と同時に剣術修行にも励みました。

21歳の時、幽谷が病死すると、家督を継いだ藤田東湖は彰考館で大日本史の編纂プロジェクトに参加、彰考館総裁代役など、中心人物として活躍します。

 

また、当時藤田派と対立していた水戸学の立原派との和解に尽力したことで、水戸学の大成者としてのポジションを確かなものにしました。

その一方、水戸藩政改革派の重要人物であった幽谷の役割を継ぎ、水戸学藤田派の門人らとともに藩政にも関わっていきました。

水戸藩では藩主の後継問題が勃発、当時の水戸藩主には子どもがいなかったため、次期藩主候補として藤田東湖が属する改革派は徳川斉昭を推しました。

 

水戸藩重臣を中心とした門閥派は徳川将軍家から養子をとって次期藩主にしようと動いていたため、大きな騒動に発展しましたが、改革派が推した徳川斉昭が水戸藩藩主に就任しました。

水戸藩藩主に就任した徳川斉昭は水戸藩の藩政改革を推し進めるにあたり、改革派の人物を多く起用していきます。特に、藤田東湖は徳川斉昭の懐刀として重用されます。徳川斉昭による水戸藩の藩政改革は様々な成果をあげました。

 

しかし、水戸藩内では改革派と門閥派が依然として激しく対立していました。徳川斉昭が藩主に就任してから10年が経過した頃には、改革派が藩政を掌握していました。

ところが門閥派は幕府中枢と結びつき、徳川斉昭を謹慎へと追い込み、藩主を失脚させました。この時、38歳だった藤田東湖も蟄居処分を言い渡されてしまったのです。

 

■江戸幕府での活躍。

蟄居中、藤田東湖は「常陸帯」や「回天詩史」などを書きました。後に、これらの著物も幕末の志士たちに愛読されることになります。藤田東湖は門閥派をないがしろに改革派が強引に政治を推し進めたことも反省していたといわれます。

蟄居処分を言い渡されてから9年後、ついに徳川斉昭も復権し、藤田東湖が藩政に復帰します。時世はペリー来航を受け、大きく揺れ動いていました。

 

幕府老中首座・阿部正弘は、水戸藩の藩政改革に実績を持つ徳川斉昭を海防参与に任命します。徳川斉昭に呼ばれ江戸入りした藤田東湖は、海岸防禦御用係として徳川斉昭を補佐していきます。

藤田東湖は「海岸防禦御用係」という徳川斉昭を援助する武士としての仕事の他に、「学者」藤田東湖のもとを訪れる人々の対応にも追われていました。

西郷隆盛、佐久間象山など、後に幕末の歴史に名を残す偉人も、藤田東湖に教えを乞いました。

しかし1855年、現在の研究ではマグニチュード7レベルの揺れであったとされる「安政の大地震」によって、崩れた天井の梁から母親をかばい、藤田東湖は49歳で突然この世を去りました。

 

スポンサーリンク

 

政策内容。

(提供:写真AC)

 

藤田東湖が強力にサポートした徳川斉昭の水戸藩の財政改革は、他藩はもとい幕府からも高く評価されていました。その政策内容をご紹介します。

まず、1839年から、水戸藩内全域を対象に大々的な検地をおこない、「均田制策」を実施しました。その一方、農民の負担となっていた附加税を廃止、農民の納税を年貢のみとしました。

年貢による収益は減少したものの、検地を実施したことによって水戸藩は安定した税収入を得られ、農民の税負担も減りました。

 

さらに藩校弘道館を設立し、人材の育成に取り組みます。

この弘道館の建学にあたり、藤田東湖は学校の教育方針をまとめた「弘道館記述義」の起草を行い、訂正を重ねて完成させます。

水戸学の集大成と言われる「弘道館記述義」は、木活本上下2冊が刊行され、水戸藩内だけでなく各地の藩校のテキストとしても採用され、幕末の志士たちにも愛読されました。

 

さらに当時、長州藩の奇兵隊や明治政府の徴兵制に先駆け、水戸藩では「国民皆兵」が掲げられました。実際に大規模な軍事練習が行われたほか、西洋の近代兵器を藩内生産できるよう、研究・開発が進められました。

「弘道館記述義」をはじめ、水戸藩で行われた革新的な藩政改革は、維新を牽引していく諸藩、さらに明治政府の政策にまで影響を及ぼしました。

藤田東湖の正氣歌とは?

中国の南宋に文天祥(ぶんてんしょう)という官吏がいました。
文天祥はフビライ・ハーンに捕らえられ、何度も元王朝の家臣になるよう説得されます。しかし、文天祥は説得を拒み続け、ついに処刑されてしまいました。

当時、文天祥は中国国内だけでなく、日本でも「忠臣の鏡」として有名でした。もともと正氣歌とは、文天祥が詠んだ漢詩でした。

 

蟄居処分を受けた藤田東湖は、同じ境遇にあった文天祥が作った漢詩「正氣歌」にリスペクトして、自作の「正氣歌」を書きあげました。

藤田東湖の正氣歌では、文天祥の漢文を用いつつ、水戸学における尊王思想にもとづき、藤田東湖の考える主従関係や、武士道について触れられています。

正氣歌は幕末の志士たちを鼓舞したばかりか、明治、大正、昭和初期にかけて、愛国家の人たちにも愛されました。

「もし生きるのなら、まさに主君の冤罪をそそぎ、再び主君が表舞台に立って、国の秩序を伸張する姿が見られるに違いない。死しては忠義の鬼と化し、天地ある限り、天皇の御統治をお護り申し上げましょう」

正氣歌の締めの一文は、幕末の志士たちばかりでなく、現代の日本に生きる私たちの心にも響いてくるものでしょう。

 

スポンサーリンク