(提供:写真AC

1866年1月21日、およそ150年前、この日本で、とても重大な同盟がひそかに結ばれました。それが『薩長同盟』です。

坂本龍馬が薩摩藩と長州藩を結びつけ、同盟の実現に大きな役割を果たしたことでも知られています。締結からおよそ150年がたった今でも、この薩長同盟は、日本の歴史でも大きな出来事としてとらえられています。

薩摩藩と長州藩を取り持った坂本龍馬の目的は何だったのか、そして坂本龍馬が果たした役割とは何だったのか。今回は、薩長同盟締結の舞台裏に迫ります。

 

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そもそも薩長同盟とは?何が目的だったのか?

●薩長同盟が結ばれるまでの流れ

1865年5月、日本初の貿易会社「亀山社中」が長崎に設立されます。
薩摩藩が援助し、坂本龍馬が中心となって立ち上げました。

亀山社中は海運業を営む傍ら、有事には海軍として活躍することを目的とした政治・軍事組織です。この亀山社中が薩長同盟で重要な役割を果たします。

この時、亀山社中を設立した坂本龍馬は、薩長同盟実現のため奔走しています。そして、ようやく下関で薩長の交渉の場を設けることができたものの、薩摩側の代表である西郷隆盛が「ドタキャン」してしまい、薩長同盟の実現は危うくなります。

そこで坂本龍馬は、亀山社中が武器の購入を禁じられている長州藩のために、薩摩藩名義で武器と軍艦を購入し、かわりに長州藩は薩摩藩が必要としている兵糧米を用意することで、両藩の関係を改善しようと考えます。

亀山社中は武器商人のグラバーと商談を成立させ、武器と軍艦の購入に成功しました。坂本龍馬の考えた通り、両藩の関係はこれによって大きく改善されます。

長州藩と薩摩藩は京都で再び会談することになり、ここに秘密裏に薩長同盟が結ばれます。坂本龍馬をはじめ、亀山社中のメンバーや土佐藩浪士中岡慎太郎などの尽力があり、紆余曲折あって結ばれた薩長同盟ですが、そうまでして実現させた目的とはなんだったのでしょう?

 

●薩長同盟が構想された背景。

薩長同盟が結ばれた1866年1月からさかのぼること1年半前、1864年8月のことです。尊皇攘夷運動を活発に行っていた倒幕派のリーダー的存在の長州藩に、ついに幕府から征伐令が出されました。

この「第1次長州征討」のとき、公武合体を推し進め幕府に近い立場にあった薩摩藩から、西郷隆盛が総督に任命されます。西郷隆盛は幕府の軍艦奉行並の勝海舟に出兵を要請します。

幕府は外国の言いなりで弱体化している。力のある藩が合議して国政を取り仕切る共和制の政権を立ち上げるべきであると、勝は西郷に説きました。

薩英戦争を経験した薩摩藩は、外国の軍事力には適わないことを実感していました。西郷隆盛は薩摩藩の方針を公武合体から長州藩存続へと転換します。

倒幕派のリーダー的存在である長州を征伐をすることは、幕府勢力の増長につながるからです。そのため、第1次長州征討では、西郷隆盛は寛大な処分を提案し、実戦を交えることなく長州を全面降伏させました。

 

●薩摩藩も倒幕に転じる。

以後、薩摩藩は長州藩同様、倒幕を考えるようになります。薩摩藩は琉球とイギリスと結び、経済力・軍事力の増強を図りました。

しかし、薩摩藩だけで倒幕をなせるとは考えられませんでした。倒幕派のリーダーである長州藩と手を結ぶことは、薩摩藩にとって倒幕への大きなステップになることでした。

 

●長州藩も困っていた。

一方、第1次長州征討をはじめとした幕府の弾圧、さらに下関戦争で英・仏・蘭・米の連合艦隊に完敗した長州藩は窮地に陥っていました。

軍備を整えるにも、長州藩は武器や軍艦の購入を禁じられていました。長州藩も倒幕を考える薩摩藩と手を結ぶべきだという考えが出始めます。

そこで薩摩藩の西郷隆盛や勝海舟の意向を受けた坂本龍馬が、長州藩に身を寄せていた土佐藩浪士中岡慎太郎ともに、薩摩藩と長州藩を提携させる為に動き出したのです。

 

●亀山社中を設立。長州のための武器を運搬。

坂本龍馬は勝海舟が設立した神戸海軍操練所の練習生でした。神戸海軍操練所は反幕運動に加担した練習生がいたことで、幕府に反幕組織と嫌疑をかけられ、総監であった勝海舟は軍艦奉行並を罷免され、操練所も閉鎖されました。

この時、勝海舟は操練所の練習生たちを西郷隆盛に預けます。坂本龍馬は操練所の練習生たちをメンバーに、薩摩藩の援助を受けて亀山社中を設立、社中は長州藩のために武器・軍艦の購入を引き受け、薩長同盟の実現に一役買っています。

 

●倒幕のための軍事同盟。

薩長同盟では倒幕を意識した合意がなされました。長州藩では第2次長州征討への備えも急務とされていました。

つまり、薩長同盟の目的は、経済力・軍事力を持つ薩摩藩と倒幕派のリーダー的存在である長州藩が手を結ぶことで、第2次長州征討での長州藩滅亡の阻止、ひいては倒幕への足がかりだったのです。

1866年6月、薩長同盟から5ヶ月後、幕府は第2次長州征討を行う。幕府は西国32藩に出兵を命じるが、薩摩藩は出兵を拒否します。

長州藩は最新の洋式兵器を導入し、総勢15万の幕府軍を数千人の兵士で退けました。幕府は長州藩に完敗し、勝海舟を派遣して講話を結びました。まさに薩長同盟によって長州は生き延びたのです。

 

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当時の薩長は犬猿の仲。薩摩藩と長州藩が仲が悪かった理由。

●両者には政治的立場の違いがあった。

1853年、現在の神奈川県浦賀沖にアメリカの黒船が来航し、武力をちらつかせ日本に開国を迫りました。アメリカの要求に1854年には下田と箱館を開港、イギリス、ロシア、オランダと次々に和親条約が締結されました。

江戸幕府が開かれて以来の危機的状況に、国論は「開国推進」か「攘夷(外国を打ち払う)」か真っ二つに割れます。幕府には海外情勢に詳しい幕閣も多く、開国論者が多かったです。

一方、時の考明天皇を筆頭に、朝廷は強固な攘夷を主張します。全体的に見ると、この時点では攘夷を支持する声が圧倒的多数でした。

こうした中、長州藩は過激な尊皇攘夷を打ち出し、朝廷の信頼を得ます。薩摩藩では幕府を倒すまでにいたらず、幕府と朝廷が手を取り合い、この不測の事態に対処すべきと公武合体をすすめます。

まず、長州藩(尊王攘夷) VS 薩摩藩(公武合体)の対立軸を理解して下さい。

 

●仕事の取り合い、そして両者による戦闘で関係は悪化。

そもそも長州藩と薩摩藩は、共に有力な勤王藩で、朝廷内の力のある公家の取り込みや、公家の身辺警護、御所の警護の取り合いなどで日常的に小競り合いを繰り広げていました。

しかし、長州藩は「八月十八日の政変」と呼ばれる朝廷内の公武合体派のクーデターにより、京都から追放されます。この八月十八日の政変で、薩摩藩は会津藩とともに、京都での主権を握ります。

禁門の変では長州藩が御所を襲撃し、ついに朝敵とみなされます。幕府軍、薩摩藩、会津藩に長州藩は敗退し、藩存亡の危機に立たされます。

ともに勤王をかかげる藩でありながら、朝廷内での主導権争いを展開していた長州藩と薩摩藩でしたが、薩摩藩が画策した八月十八日の政変で京都を追われ、さらに禁門の変で藩存続の危機に陥った長州藩はひどく薩摩藩を憎むようになります。

坂本龍馬が果たした役割。薩長の仲だちとなる。

さて、時間軸を薩長同盟が結ばれる直前に戻しましょう。

薩摩藩と長州藩は、日本の中ではともに力を持った藩でありながら、御所では日々いがみ合い、しまいには八月十八日の政変や禁門の変が勃発、とにかく馬も合わなければ、足並みもそろいません。

しかし、この両藩は、倒幕という目標は一致していました。薩摩藩と長州藩は、手を組むとお互いに大きなメリットがあったのです。

 

●長州滅亡の危機。しかし、武器が買えない。

そこに、幕府が第2次長州征討に踏み切るという情報が流れます。

しかし、朝敵とみなされた長州藩は武器・軍艦を購入することができませんでした。当時、武器や軍艦を購入するには、幕府の許可が必要だったのです。

これでは、長州藩は第2次長州征討に備えることもできず、藩そのものが滅亡しかねない、危機的状況でした。

そこで坂本龍馬が薩長同盟実現へ動き出します。薩摩藩の援助を受けて亀山社中を設立した坂本龍馬は、薩摩藩とは親しい関係にあります。

坂本龍馬と共に薩長同盟の実現に奔走した土佐藩脱藩浪士・中岡慎太郎は、脱藩後長州藩に身を寄せていた為、長州藩にはパイプがあります。

坂本龍馬と中岡慎太郎の働きで、実際に薩長同盟が結ばれる半年前に、すでに下関で会談の場を設けることに成功しました。

 

●一度目の会談は失敗。

しかし、土壇場で薩摩藩側の代表、西郷隆盛がドタキャン。実際は、西郷は会談にとても前向きでしたが、藩内には根強い反対意見があってまとめきることができず、やむを得ず会談を放棄したのです。

これには長州藩(桂小五郎と高杉晋作)は「薩摩に恥じをかかされた」と怒りをあらわにします。

そこで坂本龍馬が、亀山社中が薩摩名義で長州藩のために武器と軍艦を購入し、薩摩藩には長州藩が兵糧米を用意するという、関係改善策を提案します。

 

●二度目の会談も失敗。

亀山社中が武器と軍艦を用立てたことで、改めて京都で薩長の会談の場が設けられました。しかし、その会談もうまくはいきませんでした。

会談初日で長州藩代表の桂小五郎が、西郷隆盛に恨み言を言い立て、西郷隆盛は「ごもっともで」と黙って聞くだけで、どちらとも同盟を持ち出す空気ではなくなってしまいました。

 

●坂本龍馬の見事な動きによって挽回

それから10日間、会談は進展しません。遅れて京都入りした坂本龍馬もこれには驚きます。坂本龍馬はさっそく長州藩の桂小五郎に話を聞きます。

桂は「長州は存亡の危機に直面している。だからこそ長州から助けてくれとは言い出せない。今回、薩摩と話しをまとめることができなければ、我々は討ち死にするだけである。しかし、自分たちが死んだとしても、薩摩が勤皇の意思を継いでくれるだろう」と言います。
桂小五郎は長州藩の体面を気にしていました。

 

続いて、坂本龍馬は薩摩藩の西郷隆盛と話します。

「なぜ薩摩藩側から同盟の話を切り出さないのか。あなたたち薩摩藩は余裕がある。長州の苦しみは察しがつくもの。長州側から言い出せない理由もわかってほしい」という坂本龍馬の言葉に、西郷はあらためて薩摩側から同盟の話を切り出すと約束したといいます。

薩長同盟は坂本龍馬が会談をセッティングをしただけでなく、亀山社中を介しての長州藩が必要とする武器・軍艦の購入による両藩の関係改善に、さらに会談においての西郷隆盛を説得したのです。

 

影の立役者・中岡慎太郎。着想から仲介、実現までを行う。

薩長同盟の着想は、この中岡慎太郎によるもので、坂本龍馬の協力を受け、薩長間の仲介から同盟締結の実現まで一貫して行いました。

しかし、この中岡慎太郎の功績は、現在ではほとんど知られていません。そこで、中岡慎太郎の薩長同盟実現までの道のりを追ってみましょう。

土佐国北川郷の中岡家は名字帯刀を許された郷士身分でした。

 

中岡慎太郎は幼い頃から勉強熱心で努力家でした。後に武市半平太から剣を学び、土佐勤王党に加盟、本格的に尊王攘夷運動に投じます。

八月十八日の政変が勃発し、土佐勤王党も弾圧を受けるようになると、中岡慎太郎は土佐藩を脱藩し、もともと交流があった長州藩へ逃亡しました。

長州藩では各地にいる長州藩士や同じ境遇の脱藩志士たちの連絡役という重要な役割を任されます。

さらに都落ちしていた公家・三条実実の衛士も務めるようになります。禁門の変や下関戦争にも長州側として参戦しました。

 

第1次長州征討のとき、中岡慎太郎は征討軍参謀であった西郷隆盛と面会します。中岡慎太郎は西郷の人柄に惚れ込み、薩長が和解できる可能性がないか考えるようになります。

こうして薩長同盟に向け、中岡慎太郎は薩摩藩と長州藩を飛び回ります。

そして、中岡慎太郎は、薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の高杉晋作、山県有朋の会談を実現させます。坂本龍馬が本格的に薩長同盟実現に動き出す、3ヵ月も前のことです。

中岡慎太郎がいなければ、薩長同盟の実現を唱える人は誰もいなかったかもしれません。また中岡慎太郎のパイプと、粘り強い交渉がなければ、薩長の会談の実現も難しかったかもしれません。

 

薩長同盟の内容を現代語訳してみた。

薩長同盟は密約で、合意はすべて口約束でなされました。

しかし、現在では、同盟が結ばれた翌日に、桂小五郎が文章にしたもので内容を確認することができます。それでは、薩長同盟の内容を、現代語訳にしてみてみましょう。

  1.  長州藩が幕府と戦争になった場合。
    薩摩藩はただちに2000ほどの兵を向かわせること。さらに京都の兵と合流し、大阪にも1000人ほど配置して、京都・大阪の守りを固めること。
  2. この時、長州藩が勝利する戦況となった時には、朝廷に進言して調停に尽力すること。
  3. 万が一長州藩が負けた場合。
    半年や1年で長州藩が壊滅するとは考えられないので、その間、薩摩藩は必ず長州藩を助ける為に尽力すること。
  4. 戦争が終結し、幕府軍が撤収した時。
    薩摩藩は長州藩の冤罪を免ずるよう朝廷の説得に尽力すること。
  5. 一橋、会津、桑名などの藩が兵力を増強し、朝廷を利用して薩摩藩を妨害するようなら、薩摩藩は決戦に踏み切るものとする。
  6. 長州藩の冤罪が免じられたら、薩長双方は誠意を持って、力を合わせ、皇国のために力を尽くすこと。
    勝敗いずれの場合でも、国と天皇の威光の回復の為に、誠心誠意、力を尽くすこと。

全体を見ると、幕府が第2次長州征討に踏み切った時には、薩摩藩が全面的に援護するというものです。圧倒的に長州藩にメリットがある同盟でしたが、薩摩藩はすでに倒幕戦争における軍事同盟の一環として考えていたともみられています。

薩長同盟の歴史的意義。

薩長同盟が結ばれた5ヶ月後、第2次長州征討が始まります。長州藩は薩摩藩の支援で軍備の近代化をはかりました。幕府から出兵を要請された薩摩藩は、薩長同盟に基づいて、これを拒否しています。

そして、長州藩は幕府の大軍に勝利し、倒幕の機運を大きく高めました。

薩長同盟が結ばれたことによって、いよいよ倒幕が現実味を帯び、薩摩藩と長州藩が中心となって、大政奉還、王政復古の大号令によって新政府が樹立されるのでした。

薩長同盟は、このような日本史のダイナミックな流れを生み出したことに、その歴史的意義があるのです。

 

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