(賎ヶ岳 提供:写真AC)

近江出身の脇坂安治は「賤ヶ岳の七本槍」にも数えられています。秀吉配下の猛将として、あらゆる戦いで武勇を見せつけました。秀吉の死後は家康側に寝返り、江戸時代の終わりまで脇坂家は守られたといいます。

 

スポンサーリンク

 

「賎ヶ岳の七本槍」とは?

(賤ヶ岳古戦場跡 管理人撮影)

織田信長亡き後、配下の秀吉と柴田勝家は主導権を巡って反目します。

そして、衝突したのが1583年の賤ヶ岳の戦いです。ここで活躍したという秀吉家臣の脇坂安治、加藤清正、福島正則、片桐且元、平野長泰、加藤嘉明、糠屋武則を七本槍と称します。

といっても、これは活躍した一部ということで、賤ヶ岳では石田三成や大谷吉継ら有名武将も武功を挙げており、七本槍は大仰な宣伝文句だったよう。「最強の七本槍を従える秀吉すげぇー」みたいな効果を狙ったのでしょう。

当の七人も実は嫌がっていたそうです。まあ、漫画みたいに「俺は七本槍のひとり……」とか自己紹介するのも痛いですもんね。

余談ですが、安治は敵将の赤井直正にヒョウの皮をもらい、槍の鞘に使っていたそうです。やがて豹皮は脇坂家代々の象徴となりました。大阪のオバちゃんの先駆けなんでしょうか。

小牧・長久手の戦いで、伊賀上野城を落城。


(伊賀上野城 提供:写真AC)

賤ヶ岳で柴田勝家を倒し、ますます増長する秀吉に、周囲の人間は危機を覚えます。織田信雄・徳川家康を筆頭に尾張周辺で反秀吉勢力が立ち上がりました。小牧・長久手の戦いです。

信雄配下だった伊勢地方の滝川雄利が反乱すると、安治は羽柴秀長とともに伊勢・伊賀へ回ります。松ヶ島城を追い出された雄利は、家康の援軍を受けて秀長を包囲。そのピンチにも安治は奮闘しました。

雄利を退けてから、安治は伊賀上野城を攻略し、和議が結ばれると上野城城主となります。その功により後に摂津、大和と移封され、最終的に淡路洲本3万石を与えられています。

 

スポンサーリンク

 

水軍としても活躍。「九州平定」では兵糧を海上輸送。「小田原攻め」では海上戦を展開する。


(小田原城 提供:写真AC)

七本槍というと白兵戦に長けた印象がありますが、安治は水軍の指揮が特に知られています。加藤嘉明、九鬼嘉隆と水軍衆を率いています。

豊後の大友から依頼され、薩摩島津の平定に乗り出した秀吉。しかし、屈強な島津軍には大苦戦。この際、安治率いる水軍が兵糧の輸送、海からの侵入などで大いに助けとなったのです。

小田原攻めでは北条氏の誇る伊豆水軍を撃破して、伊豆半島の諸城を落としました。小田原の沖合に船を並べ、陸上での包囲網と合わせて、小田原を孤立させ勝利に一役買っています。朝鮮出兵にも参加し、いくつもの海戦で活躍しました。

「関ヶ原の戦い」では西軍につくが、寝返り攻撃を展開する。戦況一転のきっかけの一人となる。

(関ヶ原古戦場跡 提供:写真AC)

こうして秀吉に忠実な武将だった安治ですが、関ケ原の戦いでは開戦してから西軍を裏切って東軍につくようなことをやっています。

戦況を見て勝ち馬に乗ったようなダークなイメージに思われますが、実際安治は最初から東軍につくつもりで家康と連絡を取っていました。

しかし、大坂にいるときに西軍の石田三成が挙兵したので、仕方なく西軍で出兵したというのが真相らしいです。

裏切りそうだと注視されていた小早川秀秋の見張り役にあてがわれたのも幸いし、小早川軍が裏切ったのを見て、自軍も西軍を攻撃しました。

戦後に所領を保証されたのも、家康にとって最初から味方という扱いだったからです。おかげで脇坂家は守られ、他に東軍についた七本槍の中でも異例に明治まで残りました。

 

スポンサーリンク