(関門海峡 提供:写真AC)

初期ファミコンですらありえない、長州軍3500VS幕府軍15万というバグさえ疑ってしまう無理ゲー、それが「第二次長州征伐」です。

プレイスタートでゲームオーバーしそうなレベルの無理ゲーですが、アイテム「ミニエー銃」や「丙寅丸」でフルコンポを炸裂させ、第二次長州征伐をクリアしてしまうのです。ありえない大逆転劇です。

なぜ、長州藩はこの戦いに勝利できたのか?
実は、そこには勝つべくして勝つ長州藩の戦略があったのです。

今回は、第二次長州征伐をわかりやすく解説します。

 

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なぜ、幕府と戦うことになったのか?

■八月十八日の政変で、長州が京都から追放される。

(京都御所 提供:写真AC)

急進的な尊王攘夷活動を展開して、1863年には勤王藩の誉れも高く、朝廷でも発言力を持っていた長州藩でしたが、公武合体派が企てたクーデター「八月十八日の政変」で、朝廷はおろか京都からも追放されてしまいます。

公武合体派の中心であった薩摩藩と長州藩への恨みは募るばかり、下駄の裏に「薩賊会奸」と書いて踏み鳴らしていたのだから相当なものです。

※薩賊会奸(さつぞくあいかん)・・・薩摩の賊、会津の奸物(かんぶつ)の意味。奸物は「悪知恵に長けた者」という意味。

 

■「第一次長州征伐」で藩滅亡の危機に陥る。

(蛤御門<=禁門> 提供:写真AC)

1864年に八月十八日の政変での冤罪を晴らすため、長州藩は挙兵して京都に乗り込み、朝廷に直談判しようとしますが(「禁門の変」)、御所を警備する幕府軍に大敗、さらには長州藩が放った砲弾が御所内に着弾してしまいます。

その結果、長州藩は「朝敵」とされてしまいます。

禁門の変で藩内の多くの有力人物を失い、軍備も戦力も整わない中、長州藩に西国21藩を率いる幕府の大征伐軍が迫ってきます(第一次長州征伐)。

さらにイギリス・フランス・アメリカ・オランダ四カ国の艦隊から報復攻撃を受け、長州藩は藩存続の危機に立たされます。

しかし、ここで長州藩に幸運が起きます。

長州征伐軍の参謀であった西郷隆盛が、長州藩を救うために方々に掛け合ったため、戦闘は起きずにいくつかの処分だけで済みました。もはや藩滅亡かと思われましたが、なんとか長州藩は生き残ることが出来たのです。

 

■高杉晋作のクーデターで再び「倒幕」論に傾く。

(高杉晋作騎馬像 提供:写真AC)

第一次長州征伐でまっさきに弾圧の対象として狙われたのが、長州藩の尊王攘夷運動の中心人物であった高杉晋作です。そのため、福岡に逃亡します。

しかし、潜伏先の福岡で、長州藩が幕府の提示した諸条件を受け入れ、徹底恭順の姿勢を貫いていることを知った高杉晋作は長州藩の藩政を握っている俗論派を武力で打倒することを決意しました。

俗論派が掌握する藩兵2000人に対し、「我こそはと思う者は集まれ」という高杉晋作の呼びかけに応じて集まったのは、後の総理大臣となる幼馴染の伊藤博文率いる力士隊など80人ばかりでした。

高杉晋作は下関新地の藩会所を襲撃、当初は出兵を拒否した奇兵隊の総督山形有朋も諸隊を率いて駆け付け、大田・絵堂の戦いで藩の正規軍に勝利!!

「功山寺挙兵」といわれる高杉晋作のクーデターによって、長州藩の藩論は反幕府に転じました。

長州藩が行った軍制改革。大村益次郎が活躍。

(靖国神社 大村益次郎像 提供:写真AC)

奇兵隊をはじめとした諸隊を正規軍に編入して、宇和島藩からヘッドハンティングした大村益次郎を登用します。

長州藩の町医者であった大村益次郎でしたが、蘭学や西洋兵学に精通していたため、宇和島藩にスカウトされて専門家として働いていました。

大村益次郎は長州諸隊が組み込まれた正規軍の再編成を行い、藩兵たちに兵学を指導し、武器の調達なども行いました。

 

1866年になると、公武合体から反幕府に傾いていた薩摩藩と秘密裏に薩長同盟を締結、長州藩と薩摩藩が反幕府のもとに提携することが決まりました。

締結までに薩摩藩代表の西郷隆盛が会談の約束を破ったことで、一時は薩長同盟締結は不可能と思われましたが、なんとか同盟の締結に成功します。

その結果、自身の立ち上げた貿易会社「亀山社中」を介して薩摩藩名義でイギリスから最新鋭の武器を購入することが可能になり、同盟締結後には亀山社中によって最新のミニエー銃などが長州藩内に運び込まれました。

第一次長州征伐後、長州藩は自藩名義で国内外とわず武器を購入することを禁じられていました。密貿易にも限界があり、薩摩藩名義で大量の武器を調達できたことで、最新鋭の西洋軍備を整え、第二次長州征伐に備えました。

 

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第二次長州征伐の開始。ついに戦闘が勃発。

(関門海峡 提供:写真AC)

下関市立長府博物館にある「長州再征軍進発図」に、第二次長州征伐に出兵する幕府軍が描かれていますが、槍を片手に隊列を組む藩兵たちの顔は、なんだか危機感の薄いのほほんとしたものに見えるのは気のせいでしょうか。

かくして、長州藩が最新鋭の武器を集めて軍備を拡充している情報をつかんだ幕府は、朝廷からの許しを得て第二次長州征伐を行うことにします。

1866年1月下旬、幕府は長州藩の10万石の削封や藩主の毛利敬親の隠居などの処分を決定して長州藩に通達しましたが、回答期限を過ぎても長州藩からのコンタクトはいっさいありませんでした。

回答期限が過ぎた5月下旬、幕府は西国32藩に出兵を命じます。

第一長州征伐で薩摩藩の西郷隆盛が参謀を務めましたが、秘密裏に締結した薩長同盟によって薩摩藩は出兵を拒否しました。

 

■大村益次郎の指揮によって石州口での戦いに圧勝。

(大村益次郎像 提供:写真AC)

薩摩藩をのぞく西国諸藩から集まった15万の幕府軍は、6月に総攻撃を開始。

関門海峡に位置する小倉口、瀬戸内海の大島に面する大島口、安芸広島藩に接する芸州口、現在の島根県(浜田藩)に接する石州口の藩境を接する4か所で戦闘が行われました。今でも山口県では「四境戦争」と呼ばれています。

大村益次郎が指揮をとる石州口では、幕府軍の持つゲベール銃よりも射程距離の長いミニエー銃を装備していることを最大限に活かします。ゲーベル銃では銃弾が届かない射程外に狙撃隊を配置してミニエー銃を撃ち込むという作戦で圧勝、浜田城、石見銀山という要所を抑えます。

芸州口では膺懲隊の参謀の志道聞多と御楯隊の隊長、品川弥次郎率いる長州軍1000人と紀伊藩や彦根藩を中心とした5万人の幕府軍が衝突しました。

 

■小倉城が陥落。幕府軍が完敗。

(小倉城 提供:写真AC)

旧式装備の彦根藩を打ち破り、安芸藩領内に進入した長州軍は、西洋式の装備を備えた紀伊藩兵と幕府陸軍と戦闘に突入、膠着状態のまま戦況を維持。

小倉口では丙寅丸に乗り込んだ高杉晋作が長州艦隊を率いました。
山形有朋率いる奇兵隊も小倉口に配備されています。

小倉口では関門海峡を挟んで数度の戦闘が行われていましたが、幕府軍が渡海侵攻をためらっている間に長州軍が田野浦に攻撃し小倉に上陸、戦闘の主導権を握りました。

さらに乙丑丸に乗船した坂本龍馬も関門海峡に駆け付け参戦、7月末になり将軍・徳川家茂の死去を知った小倉口指揮官、小笠原長行が陣を抜け出したことで小倉城が陥落、幕府軍が完敗しました。

 

■奇兵隊が夜襲。大島の奪還にも成功。

(大島の夕焼け 提供:写真AC)

一方、小倉口では戦闘が開始される4日前に、長州軍がノーマークだった大島に幕府軍が上陸したという情報が入ります。

そこで高杉晋作は丙寅丸を率い、小倉口から瀬戸内海へ抜け、大島に配置されていた幕府軍艦隊に夜襲をしかけました。

丙寅丸と第二奇兵隊500人の長州軍と、幕府海軍を中心に幕府陸軍、伊予松山藩2000人という圧倒的な兵力差でしたが、この夜襲が功をなし、長州軍が上陸して大島を奪回しました。

 

■幕府、長州藩との講話に乗り出す。

(江戸城 清水門  提供:写真AC)

小倉城の陥落のニュースに、休戦のタイミングをうかがっていた幕府軍は、大坂城で病没した将軍・家茂の喪に服すことを理由に、勝海舟を派遣して長州藩と講和を結びました。

「長州再征軍進発図」に描かれている、戦国さながらの槍や刀という装備の兵士達が、揃ってのほほんとやる気にかける表情をしているように見えてしかたがないのですが、それもあながち間違いではないのかもしれません。

兵力では長州軍を圧倒した幕府軍でしたが、旧式の兵器を装備した藩がほとんどだったことに加え、とにもかくにも招集された各藩の足並みは揃わず、モチベーションも低かったうえに、将軍・徳川家茂の死去によってさらに士気がそがれてしまったからです。

長州勝利の理由と戦いの影響

(山口県 松陰神社 提供:写真AC)

日本史上でも稀な大逆転劇「第二次長州征伐」。

現在、長州側の勝因は主に3つと考えられています。

  • (1)薩長同盟
  • (2)海上戦力の展開
  • (3)徳川家茂の死。

薩長同盟の締結によって、長州藩は最新式の武器を調達することが出来ました。大村益次郎が指揮を取った石州口での圧勝を見れば、とても重要な要素だったことは間違いありません。

また、海上戦力の展開も重要だったでしょう。ユニオン号などの軍艦からの艦砲射撃によって幕府軍を圧倒、彼我の戦力差を埋め合わせるのに大きく貢献したことも間違いありません。

最後に、これは偶然の要素ですが、戦闘の最中に将軍・家茂が亡くなったことも大きい。幕府軍の士気がガクンと落ちたからです。自軍のトップが亡くなったのですから、戦意が落ちてしまうのは当然ですね。

 

■幕府敗北の影響。倒幕の機運を高める。

第二次長州征伐では講和が結ばれて休戦に持ち込まれましたが、全国に事実上の幕府の大敗が知れ渡ることになりました。

幕府の弱体化が白日の元にさらされたのです。

徳川幕府の求心力が低下、国内の諸勢力が次々に反幕府に転じ、倒幕の機運が一気に高まりました。時代はいよいよ倒幕一色となるのです。

 

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