(写真はイメージ 長州おはぎではない。  提供:写真AC)

現代では「インスタ映え」するスイーツが大人気ですが、インスタがなかった幕末でもインスタ映えしたに違いないあるスイーツを買い求め、京都市内の菓子店に大行列ができていました。

1864年9月、インスタはなくても口コミの力も侮れず、京都市民に大人気だったのが「長州おはぎ」です。

おはぎといえばこぶしサイズの「ごろん」としたものをイメージするかもしれませんが、長州おはぎ「ころん」とした小ぶりなもので、小さなおはぎが三つ、お盆の上に三角形に並べて提供されていました。

そして、お盆には必ず、箸が添えられていました。

(上記写真はイメージで「長州おはぎ」とは異なる)。

 

■長州おはぎのルール「まけてくれ」「一銭も負けられん」。

(古銭 提供:写真AC)

長州おはぎには買う時に守らなければならないルールがありました。

おはぎを買う人は「まけてくれ」と言います。
おはぎを売る人は「一銭もまけられん」と答えてから、ようやくおはぎを売買することができたのです。

まけてくれは長州おはぎの「36文」をまけてくれと言っているわけではありませんでした。長州藩の城下町の「萩」にかけた「おはぎ」で、お箸の配置とあわせて萩藩主の毛利家の家紋である「一文字三星」を現していたのです。

36文というのも、長州藩の「36万石」にかけています。「負けてくれ」につづくのも、「一戦も負けられん」という意味だったのです。

 

1864年8月20日に勃発した禁門の変で朝敵となった長州藩は、天皇の勅命のもと幕府による総攻撃「第一次長州征伐」を前に、藩存亡の危機に立たされていました。

当時、京都市民は表立っては長州藩を応援することはできませんでした、多くの民衆が「長州贔屓」(※1)だったそうで、誰が売り始めたのかはわかりませんが、長州おはぎというスイーツをおいしく食べてこっそりと長州藩を応援していたのです。

果たして、長州贔屓だった京都市民の応援をよそに、藩存続の危機に直面する長州藩は第一次長州征伐でどうなったのでしょうか。

今回は第一次長州征伐をわかりやすく解説します。

※1 長州の侍は金払いがよく好かれており、西国なので縁も深かった。

 

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きっかけになった禁門の変。長州藩が幕府の逆鱗に触れた理由。

(蛤御門 提供:写真AC)

1863年8月18日、尊王攘夷派を京都から締め出すことに成功した公武合体派のクーデター八月十八日の政変を発端に、尊王攘夷派を牽引する長州藩は、尊王攘夷派の公家の復権、長州藩主父子の冤罪をそそぐことなどを目的とし、朝廷に全面的に長州藩の無実を訴えることにしました。

1864年6月には、すでに250人を超える長州藩勢が入京、伏見にある長州藩邸を中心に郊外に布陣しました。

7月18日に長州藩勢が進軍を開始、翌19日に各所で戦闘が開始されますが、とくに御所の蛤御門近辺で激戦となりました。

 

蛤御門での戦闘そのものは一日で終わりましたが、この時の出火がまたたく間に燃え広がり、「どんどん焼け」と呼ばれる大火となり、多くの京都市民が犠牲になりました。

この禁門の変で、長州藩が撃った砲弾が御所内に着弾、まだ幼かった後の明治天皇である睦仁親王が驚いて失神したというエピソードまで残っています。

御所にむかって発砲したこと、さらに長州藩主父子による軍令状が見つかったことにより、長州藩は「朝敵」と見なされ、禁門の変から三日後の21日は長州征伐令が出されました。

西郷隆盛は勝海舟との会談によって考えが変わった。

( 勝海舟 坂本龍馬 師弟像 提供:写真AC)

1864年9月29日、大坂市中、北鍋屋町の専稱寺で極秘に会談が行われました。

専稱寺に滞在していた幕府軍艦奉行の勝海舟に長州征伐で幕府海軍にも出兵するよう要請するため、征伐軍の参謀であった西郷隆盛が訪ねたのです。

もちろん、西郷隆盛は強固な姿勢で専稱寺に乗り込みましたが、勝海舟に深々と頭を下げました。佐久間象山の亡き後、第一の人物は勝海舟と言いしめるほど、その人物を高く評価することになりますが、第一次長州征討前夜の二人の出会いは、歴史を大きく変えることになります。

 

天皇の勅命によってついに長州征伐令がくだされると、幕府は長州征伐のために西国21藩に出征を要請、さらに総督に尾張藩の前々藩主・徳川慶勝、参謀には禁門の変で大きな活躍を見せた西郷隆盛が任命されました。

長州征伐の参謀として、西郷隆盛は勝海舟を説得し幕府海軍を動かすつもりでしたが、勝海舟は「幕府にはすでに国内を統一する力を失っている。雄藩諸侯が同盟して国の政治を動かすべきである」と、幕臣でありながら長州征伐を非難し、雄藩を中心とした新しい日本の国家体制について語ったのです。

 

当時、雄藩とは単純に石高を基準としたものではなく、厳しい藩財政から財政改革に成功し、資金を用いて軍備を拡充、身分を問わず有能な人材を登用したことで、国政でも発言力を増すようになった藩のことをさします。

のちの薩長土肥に代表される、薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩、さらに越前藩や宇和島藩などが挙げられます。

専稱寺での極秘会談で、勝海舟に感銘を受けた西郷隆盛は考えを変えます。

 

幕府から征伐の全権を任されている総督・徳川慶勝に意見を求められた西郷隆盛は、長州征伐という内戦は国力の低下を招くばかりで、誰も得をすることはない。したがって、長州藩と交渉し、幕府に対し恭順の姿勢をとってもらうべきであると言いました。

西郷隆盛の意見に納得した徳川慶勝は、脇差一刀を授けて信頼の証とし、長州藩・恭順作戦を西郷隆盛に一任することにしました。

こうして西郷隆盛の長州藩恭順作戦が始動します。

 

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実際には戦闘は起きず、処分だけで済んだ。

長州征伐の勅命が下された直後、下関で号砲を挙げたのは幕府艦隊ではなく、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの17隻にのぼる軍艦に備えられた288門もの大砲でした。

1863年5月に長州藩が関門海峡を通過していたアメリカの商船を砲撃し、単独で攘夷を決行した「長州藩外国船砲撃事件」に対し、四カ国が連合して長州藩に報復を行ったのです。

四カ国の連合艦隊による報復は4日間にわたり、長州藩の各砲台が占拠され、大砲は戦利品としてすべて持ち出されました。

 

■武装恭順と謝罪恭順

のちに「下関戦争」と呼ばれる4カ国連合艦隊による報復事件に続き、幕府の長州征伐という危機をむかえた長州藩では、藩論が真っ二つに分かれていました。

藩政改革を成功させた村田清風から藩政を主導、「武装恭順」を主張する正義派と、村田清風と対立した坪井九右衛門から続く「謝罪恭順」を主張する俗論派が対立していました。

武装したまま幕府と交渉するという武装恭順、幕府に完全な降伏をしめす謝罪恭順という主張がぶつかりましたが、正義派の井上馨が俗論派の刺客に襲撃され瀕死の重傷を負ったことで、俗論派が藩政を掌握、俗論派を率いていた周布政之助は責任をとって自刃、藩論は謝罪恭順で統一されました。

 

俗論派は幕府への恭順を示すため、禁門の変で長州軍を率いた正義派の三家老、益田右衛門介、国司信濃、福原越後が切腹させました。

長州藩の謝罪恭順によって、総督の徳川慶勝、参謀の西郷隆盛の意見もあり、12月には長州方面に布陣させた諸藩の軍勢を撤退させ、第一次長州征伐では実戦が回避される結果となりました。

 

■西郷隆盛の提案。

この謝罪恭順劇の裏側では、西郷隆盛を中心とした動きがあったのです。

長州征伐の参謀である西郷隆盛は、長州藩に恭順を働きかけるため岩国藩に入りました。岩国藩は長州藩の支藩で、毛利一族が治めていました。

岩国藩主・吉川監物と会談した西郷隆盛は、以下の条件を提案しました。

  • 長州藩内で禁門の変の首謀者である家老三人の処罰。
  • 毛利藩主父子の詫び状の提出。
  • 八月十八日の政変から長州内でかくまわれている五人の公卿を大宰府へ移すこと。
  • 山口城の取り壊し。

これらを条件に、参謀である西郷隆盛自身が征伐軍を解兵することを提案しました。

吉川監物は全面的にこの条件を受け入れ、長州藩に恭順を働きかけました。俗論派・正義派の対立によって藩政は大きく揺らぎましたが、結果的に俗論派によって西郷隆盛の条件がクリアされることになりました。

 

■西郷隆盛、犬猿の仲である長州藩に乗り込む。

諸条件をのんだ長州藩でしたが、五卿の大宰府移送だけは、藩内でも根強い反対論があり、事態がまとまりませんでした。

八月十八日の政変で京都を追放され、禁門の変で朝敵となった長州藩でしたが、どの藩にも先駆けて勤王のスローガンを掲げ、尊王攘夷運動に奔走してきました。そのため、長州藩内で匿っていた五卿は、長州藩が勤王の先駆けとして働いてきた何よりの証だったのです。

奇兵隊を中心とした長州諸隊は、断固として五卿の大宰府移転を反対しました。奇兵隊初代総督であった高杉晋作は、俗論派の台頭によって命の危険を感じ、長州藩から逃れていました。

 

長州諸隊の挙兵、そして幕府による出兵、鎮圧という可能性も出てきたことで、西郷隆盛は自ら下関の諸隊本部へと乗り込み、幹部らを集めて会談を行うという思い切った行動に打って出ました。

八月十八日の政変、禁門の変と薩摩藩に煮え湯を飲まされた長州藩は、薩摩藩に対して強い恨みを持っていました。薩摩藩の中心的人物である西郷隆盛が長州に乗り込むということは、とても危険な行為でした。

命の危険をかえりみず下関に入った西郷隆盛は、長州諸隊の幹部たちを熱心に説得したことで、幹部たちの理解を得ることができました。

 

藩存続の危機に立たされていた長州藩は、西郷隆盛の決死の働きによって、第一次長州征討での実践を回避することができ、処分だけで済まされたのです。

第一次長州征討の後、1866年には薩摩藩代表・西郷隆盛と長州藩代表・桂小五郎との間に薩長同盟が結ばれ、時世は一気に倒幕に傾き、第二次長州征伐では見事に幕府を打ち破ることになりますが、この第一次長州征討で西郷隆盛が長州藩存続のために全力を尽くしたことが歴史を動かす大きな力となっていたのです。

 

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