(蛤御門 提供:写真AC)

天皇陛下が住んでいる「御所」は、けっして侵してはならない神域であることから「禁裏」と呼びならわされていました。

そのため、御所に設けられた門は、「禁門」と言われています。

禁門のひとつである「蛤御門」は通称で、正式名称は「新在家御門」です。

天明の大火の時に、普段は閉じていた新在家御門が開けられたため、火にあぶられてからを開くハマグリになぞられて「蛤御門」の俗称がつきました。

この蛤御門がふたたび火にあぶられることになったのは、天明の大火から75年の月日がたった1864年8月20日のことでした。

 

この日の早朝、禁門の変が起こりました。
蛤御門周辺で激しい戦闘となったことから「蛤御門の変」とも呼ばれます。

禁門の変の戦闘はその日のうちに終わりをむかえましたが、蛤御門から程近い堺町御門付近から出た火が北東からの強風にあおられ、京都全域に延焼。

現在の京都御苑の西側から南東方向の広い範囲に火の手はまたたく間に広がり、2万7000戸の家屋を焼失、負傷者744名、死者340名にのぼりました。

 

どんどん焼けていく様子から「どんどん焼け」とも言われた大火です。

八月十八日の政変で京都を追われた長州藩が朝廷内での権威回復と八月十八日の政変を企てた公武合体派の廃掃を掲げて京都に乗り込み、ついに幕府軍と衝突した禁門の変で大敗した時、堺町御門前の鷹司邸に立てこもって火薬に火をつけたことが出火原因だと言われています。

 

禁門の変で長州藩はついに朝敵となってしまいますが、これは御所近辺で戦闘が行われたことに理由がありました。

長州藩が京都に乗り込み朝敵になった理由を含め、事件の背景や経過など、禁門の変について解説します。

 

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事件の背景。八月十八日の政変で尊攘派を追放。

(京都御所 提供:写真AC)

禁門の変の背景には、孝明天皇の決断と公武合体派の働きにより尊王攘夷派を京都から締め出したクーデター、八月十八日の政変があります。

文久3年(1863年)8月18日、尊攘の志士たちが京都に乗り込み、公武合体派や幕府関係者を相次いで暗殺、京都市内ではテロが横行すると同時に、朝廷内の尊王攘夷派の公家と協力関係を結んだことで、京都の尊王攘夷派の勢いは加速します。

さらに尊王攘夷派は、孝明天皇自らが大和の神武天皇陵で攘夷戦争を実行する「攘夷親征」を誓うことを目的とした大和行幸を画策、公武合体派は尊王攘夷派の行き過ぎた行動に危機感を抱くようになりました。

 

そこで公武合体派の公家と会津藩・薩摩藩がクーデターを画策、孝明天皇から詔勅を得ると、8月18日の未明に決行。

会津藩と薩摩藩を中心とした諸藩の藩兵が御所の門をすべて封鎖し、尊王攘夷派の公家の参内を阻止すると、公武合体派のみで朝議を開催、天皇の大和行幸の延期、尊王攘夷派の公家の参内禁止、長州藩の堺町御門の警備役解任などが決定しました。

八月十八日の政変によって、公武合体派は尊王攘夷派を京都から追放することに成功したのです。

池田屋事件が発生。戦いの引き金になる。

(現在の池田屋 居酒屋になっている。筆者撮影)

1864年7月8日、京都三条木屋町の旅籠「池田屋」で、長州藩出身者を中心とした尊王攘夷の志士たちが密会を行っていました。

1863年、八月十八日の政変で京都を追われた尊王攘夷派の志士たちでしたが、1864年になると再び京都市中に潜伏するようになり、新選組や京都見廻組の探索を逃れながら密会を行っていました。

尊王攘夷派の志士たちは、御所焼き討ちの計画を企てていたのです。

 

7月8日に尊王攘夷派の志士達が密会を行うという情報を入手した新選組は、夜八時から木屋町から河原町周辺の探索を開始、局長の近藤勇が率いる4人が池田屋で会合を行っていることを突き止め、御用改めに踏み切ります。

他の新選組隊士も応援に駆け付け、20人ばかりいた尊王攘夷派の志士のうち9人を討ち取り、4名を捕縛、さらに翌朝には市中掃討を敢行し捕縛しました。

長州藩では尊王攘夷派を牽引していた松下村塾出身の吉田稔麿が討ち死にするなど、池田屋事件は衝撃的なニュースとしてとらえられました。

 

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禁門の変が勃発。長州藩が大敗する。

(蛤御門の立て看板 「禁門の変」について触れている。 管理人撮影)

八月十八日の政変によって、朝廷での権力を失い、長州藩は京都を追われました。尊王攘夷派を代表する7人の公家も失権、長州藩に落ち延びました。

さらに長州藩主毛利敬親と息子の定広も官位をはく奪され、領地内での謹慎処分を言い渡されます。

八月十八位日の政変で厳しい状況に追い込まれた長州藩首脳部では、尊王攘夷派の公家の復権、長州藩主父子の冤罪をそそぐことなどを目的に、京都に大軍を率いて乗り込み、長州藩の無実を訴えようとする「進発論」が上がり始めます。

奇兵隊に続いて創設された長州諸隊のひとつ遊撃隊を率いていた来島又兵衛などが進発論を訴えますが、高杉晋作や桂小五郎、周布政之助らは進発論に対して慎重な姿勢を見せました。

 

しかし、池田屋事件のニュースが飛び込んでくると、藩内では進発論が勢いづき、長州藩の三家老が諸隊を率いて京都に向かうことが決まりました。こうして、6月の下旬には伏見の長州藩邸など、京都郊外に布陣しました。

禁裏守衛総督の一橋慶喜は、会津藩は薩摩藩などに御門の警護を徹底させ、長州藩の進撃に備えます。この時、会津藩とともに池田屋事件で功績を残した新選組も出陣しています。

 

■禁門の変が勃発。

7月19日早朝、ついに戦局が動きます。

7月18日から進軍を開始した長州藩の各隊は、伏見街道で大垣藩と激突したことを皮切りに各所で戦闘が開始されます。

天龍寺に布陣していた来島又兵衛の遊撃隊など総勢500人の長州勢力は、三条通を進み、蛤御門の近辺で会津藩兵と激しい戦闘になります。

会津藩兵に加え、薩摩藩兵なども加わり、長州藩勢力は総崩れとなり、来島又兵衛も戦死しています。

 

一方、宝積寺に布陣していた久坂玄端、入江九一が率いる浪士隊など、総勢600人の長州勢力は、西国街道を北上して堺町御門を攻撃、鷹司邸に立てこもります。

しかし、後がなくなり、久坂玄端・入江九一は自刃。この時、鷹司邸からの出火が原因で、どんどん焼けにまで発展します。

 

この禁門の変で、長州藩は265人もの戦死者を出して大敗。

幕府側は97人が戦死、うち会津藩の60人が最も多く、いかに蛤御門での戦闘が激しいものだったが想像できます。

禁門の変で長州藩が撃ち込んだ砲弾が御所内に着弾、まだ幼かった後の明治天皇が驚いて失神したという逸話もあります。

朝敵になるも、倒幕の機運が高まる。

御所内にまで砲弾が着弾したこと、長州藩主父子による軍令状が見つかったことを理由に、朝廷は長州藩を「朝敵」とする厳しい判断を下します。

どんどん焼けが続く21日には長州藩を朝敵とした征討令が出されました。
このため、8月になると幕府は大規模な長州征討部隊を派遣、第一次長州征討が行われることになります。

 

藩存続の危機ともいえる状況に、長州藩では様々な政論が噴出しますが、結果的に武力恭順(武装はしたまま幕府に応対)を主張する俗論派が台頭、幕府に恭順を示しました。

但馬に潜伏中の桂小五郎、藩内で身の危険を感じた高杉晋作も九州へ逃亡しますが、第一次長州征討後、桂小五郎は薩長同盟の締結のための交渉を行い、高杉晋作は天王寺で挙兵して長州藩の藩論を倒幕でまとめ、明治維新に大きく貢献することになるのです。

 

禁門の変を発端に、第一次長州征討が実施されたことにより、むしろ長州藩では倒幕の機運が加速したとも考えられます。

この禁門の変で敗走する長州藩兵は、履物の裏に「薩賊会奸」などと薩摩藩・会津藩をなじる激しい言葉を書きつけ、踏みつけるように歩いたというエピソードが現在でも伝わっていることからも、のちの薩長同盟の締結がいかに困難なものだったかうかがえます。

 

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