1867年12月10日、福井の城下町を流れる足羽川の土手に、突然強い風が吹き抜け、土手を歩いていた三岡八郎は懐にしのばせていた手紙を川に落としてしまいました。

それは三岡八郎へ宛てられた、坂本龍馬からの手紙でした。
三岡八郎が足羽川に手紙を落とした瞬間、坂本龍馬が京都の近江屋で命を落とした瞬間だった――という逸話が残っています。

当時三岡八郎と名乗っていた福井藩士由利公正は、福井藩の財政を立て直した財政再建のプロで、足羽川を見下ろす旅籠で早朝から深夜まで日本の未来を語り合うほど、坂本龍馬と親しい間柄でした。

福井藩を訪ねた坂本龍馬は、対岸にある由利公正の家に行くために、足羽側を船で渡りました。由利公正の家の門をくぐり、「三岡、話すことが山ほどあるぜよ!」と叫んだのです。

坂本龍馬がこの世を去った日、由利公正は足羽川を流れていく手紙を見送りました。今回は坂本龍馬が信頼を寄せ、明治維新後も活躍した、三岡八郎こと由利公正について解説します。

 

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由利公正とは?生い立ちと経歴。

1829年、後に由利公正と名乗る三岡八郎は、福井藩士・三岡義知の嫡男として福井城下で誕生します。

石高100石の三岡家は、決して裕福な家ではありませんでした。由利公正は馬の飼育や自宅の菜園の手伝いをしながら、文武に励みました。

1838年、福井藩主・松平斉善が急死、後継ぎがいなかったため、翌年に斉善の養子となった松平春嶽が11歳という若さで福井藩主に就任しました。

のちに、幕末の四賢候に数えられる松平春嶽は、自身の出費を5年間削減し、先頭を切って福井藩の財政難に立ち向かおうとしました。

 

由利公正を見出したのが、この松平春嶽でした。

松平春嶽に政治顧問として招かれた熊本藩士の横井小楠と由利公正が出会ったのは、1851年、23歳の時でした。

横井小楠の講義に参加し、由利公正は感銘を受けます。これをきっかけに、由利公正は横井小楠に財政学を学びます。

福井藩の財政状態を立て直した由利公正は、藩内の財政状態を改善するだけではなく、財源を確保して藩の軍事力を強化する必要があると考えていました。

それは、江戸で砲術調練修行をし、兵器御製造頭取として福井藩の軍政改革に関与した経験と、藩命で江戸の品川台場の警備に派遣された時に、偶然にも黒船の来航を目撃していたことが関係しています。

 

松平春嶽が幕府政治総裁職に抜擢されると、由利公正は松平春嶽の御用人に選ばれ、日本全体の財政問題に取り組みます。

しかし、幕府が第一次長州征伐を決定すると、福井藩の藩論は反征伐派と薩摩藩・長州藩をはじめとした雄藩支持派に真っ二つに割れてしまいます。

由利公正はこの二つの勢力を提携させようとしますが支持を得られず、蟄居・謹慎処分を言い渡されてしまいます。

 

この謹慎中、由利公正は坂本龍馬と知り合いました。坂本龍馬は横井小楠の紹介で、由利公正を訪ねました。二人は意気投合し、坂本龍馬が福井を立った後も、手紙などを通じて親交を深めました。

明治維新後、新政府で五箇条の御誓文の起草に参加します。さらに新政府では金融財政政策を担当、積極的な政策を打ち出しますが、政策に対しての批判も多く、由利公正は辞職します。

 

しかし、この2年後、由利公正は東京府知事に就任、翌年には岩倉使節団に参加し、アメリカからヨーロッパへ渡航します。

欧米視察中、由利公正はおもに各国の自治制度、議会制度を中心に研究し、帰国後には板垣退助や江藤新平とともに「民撰議院設立建白書」を政府に提出。日本の国会開設に貢献します。

明治8年には元老院議官に任命され、貴族院議員を歴任し、政治家人生を歩みます。晩年には京都で生命保険会社を興し初代社長に就任、新規事業の開拓を行いました。1909年、由利公正は80歳で亡くなりました。

由利公正の功績。福井藩の財政再建に成功。

(提供:写真AC)

福井藩の政治顧問、横井小楠は「殖産興業」を提唱しました。
倹約令などで一時的に処置をしても、根本的に財政状況は改善されません。
産業を興し、物の売買を盛んにすることで、藩も領民も豊かになるという考えを説きました。

横井小楠に財政学を学んだ由利公正は、殖産興業の考えに感銘を受けます。藩主・松平春嶽に藩財政の立て直しを任せられると、この殖産興業の考えを取り入れていきます。

この時、福井藩は90万両もの借金を抱えていました。
現在の貨幣価値に換算すると、30億には上ると考えられます。

 

各藩の殖産興業を視察し、自藩の財政改革の参考にするため、由利公正は横井小楠とともに西国各地へ出張しました。財政改革に成功した長州藩の下関で、物産取引の実情を調査しました。

オランダ商館と生糸販売の特約を結び、積極的な経済政策を打ち出す長崎も視察します。

 

出張から戻った由利公正は藩札を発行します。

この藩札を藩内の生産者に賃金として低金利で貸し付けます。そして、藩札を元手とさせた、藩からの資金援助が開始されます。

さらに福井藩の特産品である生糸の販売量を上げるため、長崎屋横浜に独自の販売ルートを開拓、そこに物産総会所という、現在でいうところの「アンテナショップ」を立ち上げて販売しました。

「民富めば国の富む理である」の信念のもと、殖産興業を基本とした由利公正の福井藩財政立て直し政策は大きな成果をあげ、ついに藩財政は黒字に転じました。

 

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『五箇条の御誓文』を作成。日本初の紙幣「太政官札」を発行。

(提供:写真AC)

明治維新前夜の5年間、藩内の政争に敗れた由利公正は、謹慎生活を余儀なくされていました。

維新後、謹慎がとかれ新政府からの求めに応じて出仕することになりますが、後年、由利公正は坂本龍馬の推薦によるものだと語っています。

実際に、坂本龍馬が後藤象二郎宛てに送った大政奉還後の新政府人事案で、財政の担当者に由利公正を推薦する手紙が現存しています。

これは現存するもので、坂本龍馬が生前に書いた最後の手紙と言われています。

 

■五箇条のご誓文を起草。

新政府に出仕する運びとなった由利公正の最初の仕事は、「五箇条の御誓文」の起草作業でした。五箇条の御誓文は、天皇を中心とする新しい政治の基本を示した誓文です。

1868年1月、由利公正は「議事之大意」を提出、公家や大名による会議の原則について触れられています。

これに土佐藩の福岡孝弟が修正案を提出し、列侯会議というキーワードが加えられます。公家や大名が集まって議会を開き、国政の方針を決めていくという内容です。

そして木戸孝允が中心となって、大名中心ではなく、あくまで天皇中心であることを示すべく、第一条の冒頭に「広く会議を興し」と修正を加えました。この時、「列候会議」という言葉は消されました。

 

天下に布告すべき日本国の国是として、明治天皇の裁可を受け、1868年4月6日、明治天皇が御所の紫宸殿で公家や大名を率いて神に誓い、誓文が提出されました。儀式を行ったことによって、国家の中心に天皇を置くことが広く伝えられました。

現在では、木戸孝允が中心となって五箇条の御誓文が起草されたという認識が広まっていますが、五箇条の御誓文の原案を作ったのは、由利公正だったのです。

 

■太政官札を発行する。

初期明治新政府では、金融財政政策を任せられ、政府紙幣として太政官札を発行します。これは日本で初めての全国通用紙幣です。

これまで、各藩で財政政策の一環として、藩内で使うことができる藩札は発行されていましたが、全国で通用する紙幣が発行されたのはこれが初めてです。

明治政府の財政状況は非常に厳しいものでした。戊辰戦争に多額の費用を注ぎ込んだため、殖産興業政策を行うための資金が不足していたのです。

そこで由利公正は13年間の通用期限を設けたうえで、1868年4月に太政官札を発行します。戊辰戦争で混乱を極めている国内で、一刻も早く統一紙幣を用い、政府が通貨と経済をコントロールできるようにすることが目的でした。

 

しかし、当時の国民が紙幣に不慣れであり、新しい政府への信用が低かったことから、太政官札の流通は混乱しました。

後に国内通貨として認識され、太政官札に一定の信用が持たれるようになります。それから通貨単位の変更を経て、日本国内の通貨体系がひとつにまとめられます。

相対的にみると、由利公正が打ち出した太政官札の発行は、5年間で一定の成果を上げていますが、初期段階の混乱で批判が集まり、由利公正は辞任しています。

坂本龍馬との親交。新政府で、亡き龍馬の提言を活かす。

(提供:写真AC)

1867年11月下旬、足羽側を舟で渡り、坂本龍馬が由利公正のもとを訪ねました。
大政奉還の翌月のことでした。

坂本龍馬は「船中八策」を由利公正に提示します。
船中八策は、坂本龍馬が新政府の方針を書き記したものです。

坂本龍馬は由利公正に新政府への協力を要請、由利公正は再び舟に乗って川を渡っていく坂本龍馬を見送りました。

 

しかし、二人が会うことは二度とありませんでした。
1868年12月10日、坂本龍馬は近江屋で暗殺されてしまったからです。

新政府に出仕した由利公正は、まず五箇条の御誓文の起草に乗り出しますが、この時作成された原案「議事之大意」は、坂本龍馬の船中八策の内容と重なるものでした。

由利公正は新政府で坂本龍馬の提言を活かしたのです。

(足羽川の桜並木 福井県観光 写真素材集より

親友と呼ぶにふさわしい関係だった由利公正と坂本龍馬。

由利公正を訪ねるのに坂本龍馬が舟で渡った足羽川の両岸にある桜並木は、現在日本一の桜並木として「さくら名所100選」に選ばれています。

江戸時代、福井藩の人たちが花見を楽しみましたが、明治時代になって堤防を築くために伐採されてしまいました。後に市民の寄付により、桜並木のある光景が戻ったのです。

由利公正と坂本龍馬も、どこかで足羽川の桜並木のもとに集まる人たちを見守っているのかもしれません。

 

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