岡田以蔵、河上彦斎、桐野利秋と共に、幕末の四大人斬りに数えられる田中新兵衛。他の三人に比べると人斬りとして生き、人斬りとして壮絶な最期を遂げた本物でした。闇の仕事に手を染め、光の当たらなかった短く過酷な人斬り人生とは?

 

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安政の大獄の実行者・島田左近を暗殺。

薩摩出身の田中新兵衛は剣の修行に明け暮れた幼少期を送りました。流派ははっきりしていませんが、薩摩特有の一撃必殺剣・示現流の分派のどれかではないかといわれています。

同藩の海江田(かえだ、と読みます)信義を頼って京都に来ると、安政の大獄で井伊直弼の命を受け、尊王攘夷派や活動家を一斉に検挙した島田左近の暗殺計画に加わることに。6人で暗殺しようとして失敗しましたが、新兵衛はその後1ヶ月に渡って島田を追い回し、加茂川の橋の上でついに討ち取ってしまうのです。この執念。どこまでもつけ狙う執拗な殺し屋であったことがわかるエピソードですね。

この島田左近の暗殺は、その後頻繁に起こる「天誅」の先駆けとされています。四大人斬りの筆頭に田中新兵衛が挙げられるのは、天誅の流れを作ったことと、執念深さが怖ろしいからなのでしょう。島田は先斗町に首をさらされ、初の天誅の犠牲者になったのでした。

武市半平太と意気投合、義兄弟の契りを交わす。

島田左近の暗殺の翌月、新兵衛は土佐勤王党の武市半平太と知り合いになります。土佐のエリート半平太と、薩摩の殺し屋新兵衛、あまり似合う組み合わせとは思えませんが、なぜか二人は意気投合します。

新兵衛の殺し屋としての腕を見込んだものか、単に馬が合っただけなのか、とにかく新兵衛が半平太を「西郷隆盛と肩を並べる」と評している記録があるので、半平太に心服するようなところがあったと思われます。

土佐勤王党に加わることになった新兵衛は、土佐の人斬り・岡田以蔵らとチームを組んで、彼らが天誅としている暗殺を繰り返してゆくのです。

尊王攘夷派なのに傲慢な性格で薩土から嫌われていた越後の本間精一郎も彼らに殺されます。これは恨みであり、天誅と呼べる行動とは思えません。人斬りとして暴走していたのでしょう。渡辺金三郎、上田助之丞、森孫六など新兵衛・以蔵の凶悪コンビに殺されたとされる人物は大勢いたのです。

 

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朔平門外の変の容疑者に。取り調べ中に切腹。

そんな暴走がいつまでも続くわけはありません。島田左近を切ってから一年にも満たない1863年5月、朔平門外(さくへいもんがい)の変が起こります。

過激な尊王攘夷派だった公家の姉小路公知が覆面の三人組に暗殺されるのです。逃走した犯人が放った刀が新兵衛の愛刀と判明しました。

しかし、疑問もあります。尊王攘夷で公知と半平太は良い関係であり、新兵衛が公知を殺す理由がないのです。それでも目撃者などの証言から、新兵衛は捕まります。取り調べでは無言を貫きました。

そして、隙をついて脇差で自分の腹を割き、さらに念入りに喉まで突いて壮絶な最期を遂げます。23歳、京都で人斬りに明け暮れた期間は、わずか一年足らずだったのです。

朔平門外の変の真相は新兵衛の自害でわからないままですが、後の研究では新兵衛実行犯説が有力だろうとなっています。死に怯えて泣き喚いたという岡田以蔵と比べると、新兵衛の最期は人斬り人生をまっとうした印象です。英雄ではありませんが、田中新兵衛は幕末の暗部において、特に際立った存在なのです。

 

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