(生野の街並み 提供:写真AC)

「生野を制する者は、天下を制する」

中国山脈の山間にある集落「生野」。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が制した生野は、小さな集落でしたが銀山の発見と共に天下の覇者たちから注目されるようになり、江戸時代には「生野を制する者は、天下を制する」とさえ言われるようになりました。

 

当時は但馬(たじま)と呼ばれていた、兵庫県朝来市の生野。

この地で1863年10月に勃発した生野の変には、奇兵隊二代目総督の河上弥市も中心メンバーとして参加していました。萩城下で長州藩士河上忠右衛門の長男として誕生した河上弥市は、高杉晋作とは幼馴染という間柄でした。

 

1863年6月、高杉晋作が立ち上げた奇兵隊に真っ先に参加して、初代総督の高杉晋作をサポートしたことが奇兵隊日誌からもうかがえます。

奇兵隊結成直後、イギリス・オランダ・アメリカ・フランスの4カ国艦隊が襲来すると、奇兵隊は下関の砲台で迎え撃ちますが、4カ国艦隊の最新鋭の武器を前に敗北します。

一方、下関の対岸に位置する小倉藩は、4カ国艦隊を応援するような動きを見せたため、憤慨した河上弥市は門司の田ノ浦を占拠して長州藩の砲塁を築くなど、尊王攘夷の急先鋒である長州藩でも指折りの過激な志士でした。

 

奇兵隊結成直後の、下関の英・蘭・米・仏の4カ国艦隊の来襲では、砲台に拠って奮戦しました。しかし、最新鋭の武器の前に長州藩は敗北を喫し、沿岸は艦隊によって封鎖され、砲台も敵陸戦隊の占領下に置かれました。

この時、対岸の小倉藩は外国艦隊を応援するような態度を取ったため、大いに怒った弥市は門司の田野浦を占領して長州藩の砲塁を築きました。

 

八月十八日の政変時には京都で尊王攘夷活動をしていましたが、政変の勃発で帰国します。河上弥市の帰国直後に、教法寺事件の責任を取って高杉晋作が奇兵隊総督を罷免されたため、河上弥市が二代目総督に抜擢されます。

山口県中南部の三田尻で尊王攘夷活動を行っていた筑前出身の平田国臣と但馬出身の北垣晋太郎が滞在し、天誅組の変の応援を目的とした但馬での挙兵を計画、参加者を募集していました。

長州藩は正式に参加を拒否、そのため河上弥市は奇兵隊総督の地位を投げ打ち、奇兵隊から数人の隊士を連れて脱走し、但馬での大和義挙に合流、生野での蜂起をむかえるのでした。

今回は奇兵隊二代目総督も参加した、生野の変について解説します。

 

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天誅組の変に呼応。尊攘派が生野で兵を挙げる。

(生野の街並み 提供:写真AC)

1863年8月、孝明天皇が神武天皇陵を参拝。天皇自らが攘夷戦争を実行する「攘夷親征」を誓うことを目的とした大和行幸に先立ち、公家の中山忠光を主将に吉村寅太郎を中心として大和入りして、代官所を占拠して「御政府」と名乗り、代官所管轄の天領を天朝直轄地として支配下に置きました。

これが天誅組の変の勃発です。

そこで尊王攘夷派の志士、平野国臣と北垣晋太郎は、天誅組を応援するため、但馬での挙兵を計画します。

会合には長州落ちした七卿や、長州藩主世子、毛利定弘も参加、平野忠臣や北垣晋太郎は長州藩に協力を持ち掛けますが、藩側はあくまで消極的。
但馬の生野が挙兵決行地に選ばれたのには、いくつか理由がありました。

 

但馬は朝廷が置かれる都と近い距離にあることから、古来から勤皇の思想が根付いていました。さらに幕府・朝廷の許可のもと、北海防備に備え農兵が組織されていました。

但馬での蜂起では、北垣晋太郎のもとこの農兵も戦力に加える算段でした。生野には銀山を統括する幕府代官所があり、天誅組のように代官所を襲撃・占拠して朝廷勢力の名乗りを上げ、尊王攘夷の機先を制するという計画です。

江戸末期、生野銀山は最盛期に比べると、生産力が落ちていましたが、それでも生野銀山、代官所には多額の金子や食料が備蓄されていたので、生野代官所を占拠すれば軍資金と兵糧の問題がすべて解決したのです。

平野国臣と北垣晋太郎は、すでに三田尻に滞在中の七卿のひとり、澤宣嘉卿の説得にあたり総帥のポジションに就くことが決まりました。

 

■上陸早々に、天誅組の壊滅を知る。

さらに奇兵隊二代目総督・河上弥市と複数人の隊士が合流し、10月2日の夜、船二隻に分乗し三田尻を出港しました。一週間後には現在の姫路港飾磨港区にあたる飾磨港に到着しますが、上陸早々に天誅組の壊滅を知らされます。

八月十八日の政変で尊王攘夷派が公武合体派によって朝廷を追い出され、厳しい状況に置かれた天誅組は、幕府の討伐隊によって窮地に追い込まれて、中心メンバーが自刃したり捕縛されたりなどして壊滅したのです。

天誅組の壊滅を受け、生野での挙兵について決行・中止と真っ二つに意見が分かれました。平野国臣と北垣晋太郎は一旦は中止するべきと慎重論をとなえますが、河上弥市をはじめ奇兵隊勢を中心に多くのメンバーから決行を主張する強固論があがり、押し切られる形で生野での挙兵が決まります。

 

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ついに生野で挙兵する。

11日、生野銀山町猪野々の丹後屋太田次郎左衛門宅へと入りました。

そして、日付が変わり12日、午前2時には生野代官所を襲撃、占拠することに成功しました。「当役所」を名乗り、生野の変が始まりました。

しかし、この時すでに、代官所は救助を求めるため、近隣の出石藩、豊岡藩、姫路藩に密使を出していたのです。

 

当役所は告諭文を発して、但馬の生野一帯の村々に募兵を呼びかけました。

20歳から40歳までの男子に、残らず刀・槍・鉄砲などの武具を持って生野代官所に集まるように呼びかけると、12日の正午には、生野銀山の町に2000人もの農民兵が集まりました。

但馬の村々では、男子たちは軍事訓練も受けており、武具の使い方も理解していたし、旧式であっても武具の類を用意することは可能でした。

一方、生野代官所から救護要請を受けた出石藩は、13日の早朝に1000人を超える藩兵が生野に向かいました。

 

当役所にも、昼過ぎには出石藩の出兵情報が入り、河上弥市が十七人の兵を率いて但馬の山口村に入り、夕方には妙見山に布陣しました。

河上弥市の出兵後、当役所には、富岡藩、姫路藩も生野銀山に向かって出兵したという情報が入り、当役所では幹部による会議が行われました。

幹部間で決行論・解散論に意見が分かれましたが、このままでは出石藩・富岡藩・姫路藩を迎え撃っても勝算はなく、各持ち場についている同志を集めて意見を聞いたうえで引き上げることでまとまりました。

 

■河上弥一、撤退せず。

しかし、妙見山に布陣する河上弥市は、撤退を受け入れませんでした。

当役所では澤宣嘉卿に脱出を勧める動きが見られ、澤宣嘉卿は解散し再起を図るため、13日の夜10時頃、「各部署巡視」として部下数名をともなって生野銀山を脱出しました。

澤宣嘉卿脱出後、13日の深夜から14日の早朝までに、当役所にいた幹部や兵たちも次々に脱出、生野を落ち延びました。当役所の解散後、14日午後になってから、妙見山に布陣していた部隊が下山を始めます。

河上弥市を中心とした13人は、生野本陣へ引き上げることにしたのです。

しかし、下山すると、離反した農民兵たちが発砲してきたことで、これ以上双方に犠牲を出さないために、妙見山麓の山伏岩で13人全員が自刀。

当役所を解散し、生野銀山を脱出したメンバーも、澤宣嘉卿とともに数十名は逃げ延びることができましたが、多くの志士が出石・富岡・姫路藩の藩兵と遭遇して討ち死に、あるいは自刀、捕縛されました。

事件の影響。天誅組の変と共に、明治維新の導火線と評価される。

「奉献 議論より実を行へ、なまけ武士、 国の大事を余所に見る馬鹿、皇国草莽臣 南八郎」

現存する虫食いだらけの高札には、南八郎の変名を用いていた河上弥市が最期の思いを壮絶に書きなじっています。

「私の知り合いは世に数多くいるが、私の心を知るものは吉村虎太郎と河上弥市のみだ」と語った高杉晋作は、天誅組の変で吉村寅太郎を、そして生野の変で親友である河上弥市を亡くしました。

二人の死後、高杉晋作は功山寺で挙兵、長州藩の藩論を倒幕に統一します。河上弥市、高杉晋作、二人の総督を失った奇兵隊ですが、二人の思いを継ぎ、戊辰戦争で大きな活躍を見せました。

幕末史上、初めて「倒幕」を掲げて志士たちが奮戦した天誅組の変と生野の変は、日本全国に倒幕を知らしめたばかりか、多くの尊王攘夷派の志士たちに影響を与え、明治維新の導火線となりました。

 

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