(京都御所 提供:写真AC)

1868年1月3日早朝、朝廷には徹夜をした寝不足の討幕派メンバーが集まっていました。そこには政治犯として朝廷を追放され、たった数時間前に罪を放免された岩倉具視が現れ、天皇に「王政復古の詔」を提出しました。

こうして、明治維新後に新国家の国旗となる日章旗のような朝日が差し込む中、討幕派が画策したクーデター「王政復古の大号令」が発せられました。

大政奉還によって政権を返上した徳川慶喜は、薩摩・長州藩を中心とした武力倒幕派に対して先手を打ち、政権掌握の機会を探っていました。

 

◼︎倒幕の密勅

(徳川慶喜 提供:パブリックドメインQ)

 

大政奉還同日に、薩摩・長州両藩に「倒幕の密勅」が下されます。

これは薩摩藩の大久保利通と公家の岩倉具視がともに画策していたものでしたが、徳川慶喜の大政奉還がスピーディーに実行されたことで、まさに出鼻をくじかれた状態だったのです。

徳川幕府最後の将軍になった徳川慶喜とそのプレーンたちは、朝廷には政権を運営できるだけの能力がないことを見越していました。大政奉還後も「旧徳川幕府」が政治を担当することになると考えていたのです。

そこで討幕派は宮中クーデーターを画策、徳川慶喜の政権掌握を徹底的に阻止するため、新政権を樹立、王政復古の大号令が発せられたのです。

 

日本史の教科書にも太字で記載される「王政復古の大号令」。

大政奉還や倒幕の密勅など、重要なキーワードが多いせいか、王政復古の大号令について年号とキーワードを確認しただけで教科書を進んでしまったということも。そこで今回は、王政復古の大号令をわかりやすく解説します。

 

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そもそも王政復古の大号令とは?

(京都御所 提供:写真AC)

王政復古の大号令は、明治天皇によって天皇親政が宣言されたものです。

王政復古の大号令により、鎌倉幕府から室町幕府、戦国時代、江戸幕府まで700年間におよぶ武家による政治体制での諸制度が廃止され、新政権が樹立したと同時に260年あまり続いた江戸幕府が正式に廃止されました。

「明治天皇は神武天皇によって始められた王政にもとづき、公卿・武家・殿上人・一般の区別なく正当な議論を行い、国民と喜び・悲しみをともにされるお考えのため、おのおの勉強に励み、これまでのおごり怠けた悪習を洗い流し、忠義を尽くして国に報いる誠の心をもって奉公するようにされたし」

王政復古の大号令には、700年ぶりに天皇主導で政治が行われることに対し、強い意気込みを感じ取ることができる一文があります。王政復古の大号令の元となった王政復古の詔は、倒幕派の公家である岩倉具視が考えたものです。

王政復古の大号令では、江戸幕府・徳川家の廃絶と、天皇による新政府樹立を宣言するため、いくつかの決め事が掲げられました。

 

◼︎征夷大将軍の職を廃止。

まず、「征夷大将軍の職を廃止する」ことが挙げられます。

これによって、江戸幕府が正式に廃止されました。京都の治安維持を担当した京都守護職、朝廷や西国大名の監視を行った京都所司代も廃止されます。

従来の摂政・関白の職が廃止となり、代わりに「総裁」「議定」「参与」の三職を置くことになり、総裁には有栖川宮熾仁親王が任命され、議定には皇族・公家・諸侯から10名、参与には公家・諸藩代表者20名が選定されました。

700年前の「王政」に「復古」することを宣言していますが、平安時代や鎌倉時代から続く「摂関政治」を廃止して、実際に政権を運営するために朝廷のシステムを見直しました。

幼い天皇にかわって政治を行う摂政と、天皇のプレーン、あるいは秘書的なポジションといえる関白は、ともに政治において大きな発言力を持つ可能性があったからです。

 

大政奉還で天皇から政権を預かり国家を運営していた徳川家が天皇に政権を返上しました。この時点では、天皇のもとに新たな幕府を設けて、新体制で国家運営をスタートさせるという状態でした。

しかし、王政復古の大号令によって、幕府という政治運営組織そのものを撤廃し、天皇が自ら政治を運営すること宣言したのです。

岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通らが奔走。実現までの経緯とは?

(大久保利通像 提供:写真AC)

王政復古の大号令は、薩摩藩・長州藩の倒幕雄藩や公議政体を藩論とする諸藩、さらに公卿や天皇までをも巻き込んだ大がかりなクーデターでした。

大政奉還という奇計によって徳川慶喜が天皇に政権を返上し、薩摩藩・長州藩が狙っていた武力倒幕の大義名分を失ってしまったこと、さらに徳川慶喜が再び政権を掌握する機会を虎視眈々と狙っていました。

これでは旧体制とほぼ変わらない新政権の発足になりかねず、薩摩藩の大久保利通と公卿の岩倉具視が立ち上がったのです。

大久保利通は倒幕の盟約を結んでいる長州藩と芸州藩に、クーデター決行時、京都へ出兵するよう依頼しました。もちろん、自藩である薩摩藩にも出兵を要請しました。さらに、大政奉還を主導した土佐藩にも出兵を要請。

公議政体を藩論とする土佐藩は、現状として倒幕・佐幕のどちらにもつかないポジションでした。公議政体とは議会制度を導入して、会議によって国を運営していくという考えです。

倒幕派は新国家の政治体制として、佐幕派は幕府の新しい政治体制のひとつとして、どちらも掲げていた構想でした。土佐藩はクーデターが成功した時、新政府で土佐藩の発言力を一定以上保持するために、大久保利通の要請を受け入れます。

 

◼︎決行日が1月3日になった理由。

(現在の神戸港 提供:写真AC)

当時日本は1868年1月1日に兵庫開港を控えていました。

これは江戸幕府が結んだロンドン覚書で定められたものでしたが、もしも江戸幕府が政権を返上している現在の状況で予定通り開港が行われた場合、国際社会に対して徳川慶喜の復権をアピールすることになってしまいかねませんでした。

そのため、大久保利通と岩倉具視は、クーデターの決行日を兵庫開港の前後に起こさなければならないと考え、1月2日を決行日としました。

しかし、土佐藩の代表者・後藤象二郎は、山内容堂の入京が遅れることを理由にクーデターの延期を要請したため決行日は1月3日となりました。

 

朝廷を追放されていた岩倉具視は、クーデター決行の1月3日までに、天皇に提出する「王政復古の詔」の作成に追われました。

薩摩・長州・土佐藩の他に、倒幕派の安芸藩、公議合体派の越前藩、尾張藩らにも11月の地点で王政復古のクーデター断行を伝え、御所の各門を守衛する役割を任せます。決行前日、1月2日、朝廷では会議が開かれました。

この時の主な議題は、朝敵とされている長州藩主毛利敬親父子の罪の赦免、政治犯として追放されている公卿の赦免についてでした。

この会議は長引き、1月3日に日付が変わり、さらに未明まで話し合いが行われました。その結果、この2つの議題について、どちらも罪の赦免が認められました。追放中の岩倉具視も赦免され、朝廷への参内が許されました。

 

◼︎西郷隆盛が各門を占拠。

そもそも、この会議こそ、翌日のクーデターのために、倒幕派の公卿によって用意されたものでした。長い会議が終わると、親幕派の公卿たちが席を外しました。

禁裏に残ったのは倒幕派の公家と、越前藩の松平春嶽、尾張藩の徳川慶勝、安芸藩の浅野長勲でした。さらに朝命で薩摩藩主・島津忠義が参内、さらい西郷隆盛が指揮をして朝廷の各門を占拠します。

この時、各門は会津藩と桑名藩の藩兵が警備にあたっていましたが、不意をつかれて態勢を崩し撤退していました。

禁裏入りを果たした岩倉具視が、事前に用意しておいた王政復古の詔を天皇に上奏、ここに土佐の山内容堂をはじめ、各藩の藩主が続々と集まり、明治天皇によって王政復古の詔が発表されました。

これが後に「王政復古の大号令」と呼ばれるクーデターの全貌です。

 

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旧幕府軍と新政府軍の対立が鮮明になる。

(京都御所 建礼門 提供:写真AC)

王政復古の大号令が発せられた1868年1月3日の夕方、御所内で「小御所会議」が開催されました。一説によると、実はこの時、ある事情から公卿である岩倉具視が、懐に短刀を忍ばせていたとも言われる、物騒な会議でした。

王政復古の大号令で定められた三職に加え、薩摩の大久保利通や土佐の後藤象二郎など、各藩の代表者も集まっていました。

 

倒幕派は徳川慶喜の領地返上を討幕派が主張、反対する公議政体派と激しく対立することになりました。

とくに、酒に酔った状態で会議に臨んでいた土佐藩の山内容堂は、「二三の公卿、幼沖の天子を擁し、陰険の挙を行わんとしている」と言い、岩倉具視に叱責されています。

長期戦にもつれこんだ小御所会議は、一度休憩に入りました。
小御所会議に参加していた薩摩藩家老は、御所の警備を担当していた西郷隆盛に会議の現状を報告。

「短刀一本あればすむこと」と、西郷隆盛は言いました。
つまり、西郷隆盛は山内容堂の暗殺も考えていたのです。

 

西郷隆盛の言葉を聞いた岩倉具視は、覚悟を決めて懐に短刀を忍ばせ、再び会議に臨みます。さらに事情を知った後藤象二郎は、山内容堂にこの場は譲歩するべきだと説得、徳川慶喜の辞官・納地が決定しました。

王政復古の大号令のクーデターに対し、二条城に集まっていた会津藩、桑名藩をはじめとした旧幕府勢力は憤慨していました。二条城にいた徳川慶喜は、城内の旧幕府勢力が暴発するのを避けるため、大坂城へと移りました。

この状況に、静観していた諸藩の間から徳川同情論が起こり、公議政体派を中心として徳川慶喜の復権が目論まれます。同情論を利用して、討幕派の孤立を図ろうとしたのです。

 

しかし、薩摩の支藩である佐土原藩士が、江戸の市中警護を行っていた庄内藩の屯所へ発砲、これに対し庄内藩兵が三田の薩摩藩邸を砲撃した「薩摩藩邸焼き討ち事件」が勃発すると、大阪城内の幕臣は報復すべきという意見が多く上がり、徳川慶喜は「討薩の表」を発表し、旧幕府勢力が京都の淀城に入城しました。

一方、倒幕派は旧幕府軍が「朝敵」となるよう工作を行い、いよいよ旧幕府軍と新政府軍の対立が本格的なものとなり、戊辰戦争へと突入します。

王政復古の大号令の歴史的意義。

(二重橋 提供:写真AC)

王政復古の大号令は宮中クーデターですが、天皇が王政復古の詔を発表されたことで、700年ぶりに天皇を中心とした統一国家として成立したことを内外に示すことになりました。

日本史上、重大なターニングポイントのひとつと言ってもいいでしょう。日本の大きな課題である外交問題をみても、欧米列強は巨大な統一国家です。

藩という小さな国を何百と抱えている日本の旧体制では、とても太刀打ちでないと考えている人も多くいたのです。王政復古の大号令によって、日本はようやく国際社会に足並みをそろえることができました。

王政復古の大号令という計画的なクーデターが失敗していたら、日本の歴史は大きく変わっていた可能性もあるのです。

 

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