ドラマや映画でも嫌われ者に描かれる石田三成を、とことん嫌っていた浅野幸長。彼は三成の暗殺まで企てています。関ケ原ではもちろん東軍に参加しますが、豊臣への忠誠心も強く、家康にとっても悩みの種だったようです。

 

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慶長の役で「蔚山城の戦い」を経験。

(太閤祈念石 秀吉が朝鮮出兵の際、必勝を祈願して槍を突き立てたら、石が割れたと言う伝説が残る。提供:写真AC)

五奉行・浅野長政の長男である幸長は、父とともに秀吉配下として活躍。

22歳のとき、慶長の役で朝鮮に渡り、武勇を見せつけましたが、明国が朝鮮の助太刀に来ると戦況は一変。現プサン近くまで後退し、加藤清正らと一緒に蔚山倭城を築き、軍事拠点にしようとします。

 

しかし、明・朝鮮連合軍6万に城を囲まれ、水も断たれて苦境に陥り、さらに兵糧不足と冬の寒さで厳しい状況に追い込まれてゆきます。

さすがに清正も和議を考えますが、幸長は抗戦を主張。

そんな折、毛利秀元、黒田長政らの援軍が駆けつけると、連合軍に大被害を与えて蹴散らしますが、戦闘する余力は残っておらず、秀吉も亡くなったため、朝鮮から撤退することになったのです。

激戦を経験した武断派。後方支援の石田三成。両者が対立。

(石田三成像 提供:写真AC)

朝鮮出兵は新たな火種も生んでしまいました。

幸長をはじめ、加藤清正、福島正則、黒田長政ら矢面に立った武断派と、後方支援の石田三成ら文治派の間に確執ができたのです。

「こっちは体を張っているのに、三成は金の心配なんかしてやがる」

五大老・前田利家の仲裁も空しく、幸長らは三成を恨み、その屋敷を襲撃するなど過激なこともしました。ここでは徳川家康が三成を匿い、「隠居させるから勘弁してやれ」と武断派を抑えています。

これで家康は株を上げるのですが、歴史はそう単純ではありません。両者の確執は、家康が三成を失墜させるために仕組んだとも言われているのです。

 

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関ヶ原の戦いでは東軍につく。岐阜城を攻め、武功を挙げる。

(関ヶ原決戦の地 提供:写真AC)

幸長らに引っ込まされた三成もだまっていません。豊臣派を集め、家康との決戦に向かいます。三成嫌いの幸長はもちろん家康の東軍に味方します。

西軍についた織田秀信(三法師)が守る岐阜城を攻め、幸長も活躍しました。この勝利で弾みをつけた東軍は、一月後の関ケ原本戦でも勝って、家康が天下を取るわけですが、幸長たち武断派が大きな影響を及ぼしました。

彼らによって三成はずいぶん不自由なことになっていますからね。関ケ原後、幸長も功を認められ、紀伊37万石和歌山城主になっています。

戦後も厚かった豊富家への忠誠心。秀頼と家康の会見を取り持つ。

(会談が行われた京都二条城 提供:写真AC)

幸長や加藤清正は東軍に参加し、家康の時代になったことを認めてはいましたが、豊臣への忠誠心は忘れなかったようで、その復権に手を尽しています。

二人は家康と大坂城の豊臣秀頼が京都二条城で会談する手筈を整え、警備にも当たっています。

この会談は秀頼と家康が対等であることを示すためのものだったという説があり、そうであれば家康の胸中も穏やかではなかったでしょう。

「幸長は俺の味方ではない」と家康が考えても不思議はありません。

2年後、謎の急死を遂げる。家康による暗殺か?

二条城の会談から2年後。幸長は38歳で死去します。

幸長は女好きだったらしく、死因も梅毒だといわれているのですが、家康の暗殺という可能性も否定できません。

秀頼のいる大坂に近い和歌山に、豊臣への忠誠が強い幸長がいるというのは、家康も怖かったはずです。幸長の死の翌年には、大坂冬の陣が起こっているので、邪魔者を消してから動いたともとれるのです。

 

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