(井伊直弼立像 提供:写真AC

幕末期、最大のテロ事件といえば桜田門外の変でしょう。時の大老・井伊直弼が水戸藩士の集団に襲われ、暗殺された大事件。その後の混乱の引き金ともなった、雪の中の襲撃事件はどのようにして行われたのでしょうか。

 

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井伊直弼が日米修好通商条約を締結、攘夷派は激怒。

(ペリー提督来航記念碑 提供:写真AC)

黒船来航で突然外国の脅威にさらされた日本。攘夷の声が高まる一方で、幕府は外敵の威勢に逆らえず、渋々下田に領事のハリスを住まわせ、通商条約の交渉を始めていました。

怖いのは大英帝国。清国を植民地にして、日本をチラ見しているこの最強国に対し、幕府はアメリカの手助けがどうしてもほしかったのです。

しかし、条約の締結には天皇の勅許が必要。孝明天皇を筆頭に攘夷の気運が高まっていた朝廷が許すわけもなく、交渉は難航。この辺が現実を知る幕府と、ほとんど京都に引きこもりの朝廷との視界の違いなのでしょう。

そこで大老だった井伊直弼はやむを得ずと判断し、勅許なしで日米通商条約を強硬に結んでしまうのです。さあ、これで収まらないのが攘夷派の面々。その怒りの矛先は直弼一人に向けられることになったのです。

安政の大獄で攘夷派を投獄する。

(提供:写真AC)

直弼憎しの攘夷派。孝明天皇は直弼と敵対していた水戸藩へ「なんとかしろや」と密書まで送りつけるほどでした。「戊午の密勅」です。

水戸藩は各藩に協力を要請するのですが、まだこの頃は幕府も強く、どこも腰が引けているという有様で、成功しませんでした。それでも全国で沸き立つ直弼への怒り。女城主・井伊直虎、徳川四天王・井伊直政の子孫である名門の直弼といっても、黙っていられなくなります。

「民衆を煽っている学者どもを弾圧しなければ、徳川の威信が落ちる」というわけで、攘夷派の知識人や役人たちを片っ端から始末してゆくのです。吉田松陰をはじめ、斬首や獄死した者は十数名。

さらには謹慎、永蟄居、島流し、追放、押込めなどと処分された者は数知れず。朝廷の公家すら罪人とする徹底的なものでした。これが世に言う安政の大獄であり、直弼が死ぬまで続けられたのです。エリートが切れると怖いんですよね。

 

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ついに運命の日。雪の降るなか、水戸浪士たちに襲われる。

(桜田門 提供:写真AC)

安政の大獄の横暴は、攘夷派への燃料投下となります。特に、水戸藩では戊午の密勅の罪を「水戸の陰謀」とされて、殊更きつくやられたこともあり、怒りの頂点に達していました。

そこで直弼暗殺に17人の水戸藩士と、加わった薩摩藩士1人(桜田十八烈士)が立ち上がり、1860年のひな祭りの日、桜田門を出た直弼の登城の行列が襲撃されるのです。

 

その日は雪、視界はよくありませんでした。烈士の一人が行列の前にひざまずき、訴えを装って動き止め、そこを拳銃の合図で烈士たちが襲いかかります。

護衛たちは大パニック。雪で羽織っていた合羽で動きにくいうえ、刀にも濡らさぬよう袋をかけていたためすぐに抜くことができず、応戦の間もなく次々と倒されてゆきました。

直弼は乗った駕籠が銃撃され、さらに刀を突きさされ、外に引きずり出されて首を刎ねられました。

 

朝の9時頃、大名見物の人が大勢見ている前での惨劇だったそうです。この事件で幕府の権威は失墜、維新が加速度を増してゆく結果となります。

転換期となった大事件ですが、今思うと開国の道を切り拓き、近代化を進めたのも実は井伊直弼であったと思われてなりません。

 

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