(米軍が使用した高性能爆弾 提供:ゆんフリー写真素材集

太平洋戦争末期になると敗北を重ねる日本は本土の各都市が米軍による空襲を受けるようになります。日本の首都東京は第一の目標として空襲を何度も受けます。そのなかでも大空襲と呼ばれる大規模なものもありました。

東京大空襲がいかに悲劇的であったか紹介します。

 

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被災場所は墨田区・江東区などの東京の東部。

(隅田川 提供:写真AC)

昭和20年(1945年)3月10日に東京大空襲と呼ばれる大規模な空襲がありました。空襲を受けた地域は墨田区や江東区と言った東京の東部です。

墨田区は住宅地ではあったものの、大正時代の関東大震災後に町工場が建つ工業もある地区になっていました。紡績や石けん・靴にゴム工業や時計などの精密工業を作る工場がありました。

従業員が10人以下のところもある中小企業の町工場が並ぶ墨田区でしたが、米軍は戦争継続を支えているとしてこれらの向上を目標にしたのです。

 

また、江東区も紡績・製材・鋼鉄・機械などの工業がある地域で、軍需工場となっていたのです。そのため、米軍はこの工業地帯を工場の従業員が住む家ごと破壊する作戦を計画したのです。

それが都市への無差別爆撃になった理由です。

また、東京大空襲では江東区と墨田区に隣接した日本橋や浅草・上野も空襲に巻き込まれます。運の悪いことに、空襲のあった日は低気圧による強風が吹いていました。そのため、火災がどんどん広がったのです。

死者数は約10万人。関東大震災の犠牲者に匹敵。

(提供:イラストAC)

東京の東部が炎上した3月の東京大空襲は多くの被害が出ました。
40平方km(東京ドーム855個分)もの広さが空襲により焼失しました。

被災家屋は26万8500戸以上で家を失うなどした被災者は100万8000人以上になります。そして、死者は8万人から10万人と言われ、4万人以上が負傷。死者数は大正12年(1923年)に起きた関東大震災の10万5000人に匹敵します。

人口が密集する地域へ300機以上のB‐29が襲来して爆撃を行ったためでもありますが、1度の空襲で10万人もの犠牲者が出たのは後の広島での原爆投下までありません。3月10日の東京大空襲が大きな悲劇であった事が分かります。

 

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約1700tも投下された焼夷弾。火炎地獄を作る兵器のメカニズム。

(M69焼夷弾  提供:ゆんフリー写真素材集))

東京大空襲での被害を拡大したのは焼夷弾によって発生した火災です。
この焼夷弾とはどんな兵器なのでしょう?

B‐29から日本の都市へ投下された焼夷弾はM69焼夷弾と呼ばれる物です。M69はE46収束焼夷弾の中に36本が収められています。

E46はM69を束ねるための容器です。E46はB‐29から投下されると空中でバラバラになり、束ねてあったM69もバラバラになって空中に広がります。

このような仕組みによって、爆弾が広範囲に散らばるようになっています。

 

■さらに、油(ナパーム)を飛び散らせる。

(火事のイメージ 提供:写真AC)

落下するM69は六角形の金属製の筒です。
木造家屋の屋根を突き破り屋内に飛び込むことができます。
床または地面に着いたM69は筒の底にある信管の火薬が発火します。

この発火は弾としての爆発では無くM69を飛び立たせる為です。
発火によりM69の底が抜けてM69に詰まっている油(ナパーム)が周囲に飛び散らせて地上を炎上させます。

そもそも、このM69は日本の木造家屋を燃やすために開発されたものなので、このような仕組みになっていたのです。

また、貫通力を高めてコンクリートの建物を攻撃する目的で作られたマグネシウムなど金属の燃焼で炎上させるM50焼夷弾も使われました。

現在の繁栄した東京。

(隅田川と東京スカイツリー 提供:写真AC)

3月の東京大空襲の後も東京での空襲は続きます。

墨田区や江東区などの下町だけではなく、東京駅や国会議事堂周辺などの政治や経済の中心部も焼け野原にされました。

しかし、戦後70年を過ぎた現在では焼けて瓦礫の山と化した東京は大きく変わりました。東京駅は再建によって以前の姿を取り戻し、駅の周辺には200メートルの高さがあるビルが並びます。

一番の被害を受けた墨田区には塔では世界2位の高さがある634メートルの東京スカイツリーが建ち江東区は豊洲や有明などの埋め立て地が広がり新たな東京の名所が作られています。

現在の東京は70年前の悲劇を乗り越えた上で繁栄しているのです。

 

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