(旧明倫館跡 提供:写真AC)

長州藩の最高学府、藩校明倫館で朱子学を学んだ村田清風は、学費を免除され書物方を任される秀才でした。当時の藩主毛利斉房の書生として出仕をはじめ、55歳で藩の実権を掌握、藩主毛利敬親のもと、天保の改革に取り組みます。

20年後、長州藩は高杉晋作や桂小五郎など多くの志士を輩出、倒幕の先陣を切り、明治政府では総理大臣を初め、多くの長州出身者が要職に就きます。

 

しかし、村田清風が長州藩家老を務めていたこの時代、長州藩は財政難に直面していました。長州藩の大殿、十代藩主斉熙の浪費癖、抱えきれないほど数の多い家臣団への禄――長州藩の借金は銀8万貫、現在でいうと10億近い数字になります。

「8万貫の大敵」――村田静風は財政のエキスパートとして、四白政策を打ち出し、紙、蝋、米、塩の生産強化を行い、3年後には3万貫の負債を減らすことに成功しました。

その翌年には長州藩が抱える多額の借金を整理するため「三七ヵ年賦皆済仕法」を発布します。長州藩の借金「藩債」は、元金の3%を37カ年にわたって返済すれば皆済したこととみなすものです。

 

さらに村田清風は西国の商業・交通の要衝である下関に越荷方という機関を設置します。越荷方とは長州藩が運営する金融機関兼倉庫業であり、荷物を一時的に預かるばかりか、預かった荷物を担保にして、高利で貸し付けることで利益を得ることができました。

村田清風の財政改革は「8万貫の大敵」を倒さんばかりの成果を上げましたが、三七ヵ年賦皆済仕法は萩の商人からの反発にあい、越荷方も幕府当局に干渉され、村田清風は中風を病んでいたこともあり辞任します。

 

後年は中風の治療をしながら、村田清風は後進の育成に力を注ぎ、私塾で教鞭を振るい、数々の著作を残しました。

8万貫の大敵を背負った長州藩でしたが、村田清風の財政改革によって、いよいよ倒幕雄藩としての基盤が整い始め、吉田松陰のもとに後の名だたる志士たちが集まります。

長州藩の財政的基盤を整え地固めをした村田清風、そして志士たちを育て上げた吉田松陰、この2人には親交がありました。

今回は財政のエキスパート・村田清風について、政治家としての活躍、越荷方の成功、そして吉田松陰との知られざる関係をご紹介します。

 

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財政のプロとして、藩の天保改革を遂行。

(提供:写真AC)

長州藩で天保の改革を遂行し、後に財政のエキスパートと言われる村田清風が生まれた村田家は、財政プロのサラブレットとも言える家系でした。

家禄50石の村田家は、代々藩経済に携わってきた官僚の家系です。藩校明倫館で学び、村田清風は藩主付き小姓として政治家の一歩を踏み出しますが、若き藩主が早世すると、毛利斉熙が十代藩主に就きますが、浪費癖が激しく、長州藩はさらに財政難に陥ります。

 

斉熙の浪費は隠居しても止まる所を知りませんでした。11代、12代藩主とその才覚で重役を担った村田清風は、一丁先まで聞こえる大声で臆することなく意見を言い続けますが、家老と意見が合わずに2度も辞任しています。

第13代藩主に毛利敬親が就任し、家老となった村田清風は、天保改革を遂行することになります。村田清風がまっさきに掲げたのは、倹約です。奢侈禁止はもとい、絹布を着用することを禁じました。

これに対し藩の奥向きからは強い反発を受けますが、財政改革に意欲的だった藩主が村田清風を擁護しました。倹約に続き、村田清風は長州藩の組織改革に挑み、人員の削減を行いました。村田清風は能力があれば中下級武士でも登用し、名家出身であっても能力がない者は罷免しました。

 

■殖産政策にも取り組む。

(提供:写真AC)

さらに殖産政策にも取り組み、防長四白の増産、取引の強化を図りました。
防長四白とは、「米」「塩」「紙」「蝋(ろう)」の特産物のことで、いずれも白い色をしているため、そう呼ばれるようになりました。

開藩以来、長州藩では石高向上のため、瀬戸内海沿岸の大規模干拓が行われ、水田・塩田を開発していきました。ことに塩の専売は、貴重な藩の財源となりました。当時、自藩で塩をまかなうことができていた藩は、全国でも10パーセント程度だったのです。

 

さらに、製紙産業は全国の生産高の30%をしめ、品質にも定評がありました。長州藩特産のハゼノキから抽出して作られる蝋は、良質で大阪の市場でとても高い評価を得ていました。塩と同様に、蝋も藩の専売でした。

村田清風は米・塩・紙の三白を増産し、さらに藩の専売である蝋の自由貿易に踏み切り、大きな利益を上げます。

 

倹約に始まり、藩の組織改革、人員削減、そして殖産政策を遂行し、着実に成果が見られるようになると、村田清風は三七ヵ年賦皆済仕法を発布します。長州藩の下級藩士は非常に困窮していました。

それは俸禄を据え置きの上、藩の増収策として天引きまでされていたからです。生活費に困った下級藩士たちは、武士として大切な刀剣や槍、甲冑や馬まで質入して工面していたのです。

 

しかし、上級武士は藩から様々な特権を与えられるばかりか、下級藩士に金貸しをして財をたくわえていました。

下級藩士とはいえ、有事には戦場に立つ武士たちです。これでは戦場で満足に働くことはできないと、村田清風は「同志食い経済」と言って危機感を募らせていました。三七ヵ年賦皆済仕法は困窮する下級藩士への救済策です。

これはまず、藩から借りたお金の返済義務をなくするかわりに、今後は藩からお金を借りることはできないということ、そして商人から借りたお金は藩が肩代わりして、藩は利子のみを債権者へ支払い、元金は37年支払いを延期するというものです。

 

これには藩内の商人から苦情が相次ぎ、藩士からしても商人から借金をすることが難しくなり、藩士たちからも苦情が上がります。

あまりにも批判が多く、村田清風は1度改革の矢面から退きますが、三七ヵ年賦皆済仕法にかわって後任の坪井九右衛門が商人有利の政策を打ち出しますが、藩の借金を増やす結果となってしまいすぐに失脚してしまいます。

再び財政改革に着手した村田清風は下関に越荷方を設置します。
この越荷方の運営で、長州藩は大きな利益を生み出すことになります。

 

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越荷方の運営で長州藩に大きな利益をもたらす。

(提供:写真AC)

長州藩の出先機関「越荷方」を設置、村田清風は倉庫業兼金融業を営みます。関門海峡を擁する下関は、日本海から大坂へ向かう北前船の中継地点にあたります。

越荷方では下関を経由する船に倉庫を貸し出したり、積荷を担保として貸付を行い収益を得るばかりか、大坂の相場によって換金高の高い品物だけを大坂へ運び、相場の低い品物は下関の倉庫で一時的に保管し、相場が高くなった時点で大坂へ送るという仕組みをとり、さらに利益を上げました。</b.

 

さらに下関に倉庫を設けたことで、防長四白の特産品を倉庫を利用する他藩の船に載せることができたため、殖産政策によって増産された特産品を効率よく輸出することができました。

越荷方の収益実績は、4年間で「8万貫の大敵」の30%にのぼりました。

村田清風と吉田松陰の関係。松陰が尊敬していた大先輩だった。

(提供:写真AC)

野山獄に収監されていた吉田松陰は「前参政村田翁を挽す」にはじまる漢詩を作りました。吉田松陰は野山獄内で村田清風の訃報を聞き、漢詩でその死を悼んだのです。

50歳近く年齢が離れていた村田清風と吉田松陰に10年にわたる親交がありました。吉田松陰は村田清風をとても尊敬していました。

 

現在、村田清風へ宛てた吉田松陰の書簡でその関係を知ることができます。江戸遊学出立前、村田清風を訪問した吉田松陰は「時や失うべからず」という村田清風の言葉を胸に刻みました。

アメリカ密航に失敗して野山獄に収監されることになった吉田松陰に、村田清風は「はやる気持ちは分かる。しかし、命を大切にしなさい」と、気づかいを見せる手紙を送っています。村田清風は吉田松陰が野山獄に収監されている間に亡くなったのです。

 

野山獄を出所した吉田松陰は、松下村塾を主催し、後に倒幕を成し遂げ、明治政府を主導していくことになる塾生達を指導します。

吉田松陰は「何もせずに機会を失ってしまうのは、人の罪である」と塾生達に説きました。村田清風の「時や失うべからず」の言葉に通ずる教えです。

村田清風の存在は、吉田松陰を通じ、幕末の志士たちに少なからず影響を与えていたのかもしれません。

村田清風の功績:長州藩の巨額の借金を返済。

村田清風主導の天保改革によって、1854年までに8万貫の借金が皆済されました。ついに長州藩の「8万貫の敵」を倒すことに成功したのです。

その後、村田清風の財政政策を基盤に、長州藩は豊かになっていきます。財政基盤が整い、長州藩は薩摩藩に並ぶ雄藩へと成長していきます。

 

しかし、財政政策の天才と呼ぶにふさわしい村田清風の功績は、長州藩の財政を立て直しただけではありません。村田清風は海岸防備の強化を図り、洋式軍隊による羽賀台大操練を実施します。

洋式軍隊の設備を整え、維持していくのにも、莫大な資金がかかります。さらに、教育普及を掲げ、藩校・明倫館の拡充にも力を注ぎました。

村田清風の存在があったからこそ、吉田松陰の教えを受けた長州の志士たちが、長州藩の資金をもとに維新を成し遂げ、明治政府を主導することができたともいえます。倒幕を縁の下から支えたのです。

 

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