(提供:写真AC)

戦場のピアニストなる名作が残る今日、「戦場のアコーディオン弾き」がいてもおかしくはないかもしれません。シルクハットにフロックコート、アコーディオンの音色が鳴り響くのは、西南戦争の戦場でした。薩摩軍三番大隊指揮長、小隊約2000人の兵を率いる村田新八です。

シルクハットとフロックコートはパリで仕立て、ヨーロッパでアコーディオンを買い求めた村田新八は、岩倉使節団の一員として海外視察を経験、大久保利通の右腕になったかもしれない男だったのです。

 

天保七年、村田新八は鹿児島城下加冶屋町の下級武士の三男として誕生しました。天保七年――1836年は、坂本龍馬、五代友厚、松平容保、榎本武陽といったそうそうたる面々が産声を上げた年です。

さらに下級武士が暮らす鹿児島城下加冶屋町は、西郷隆盛、大久保利通を筆頭に、東郷平八郎、山本権兵衛、大山巌など、幕末・明治の歴史に名を残す偉人を多数輩出しています。

特に村田新八は、近所に住んでいた九歳年上の西郷隆盛をよく慕いました。西郷隆盛と大久保利通が中心となって結成した誠忠組にも、村田新八の名前があります。

 

西郷隆盛が薩摩藩に重用されるようになってからも、村田新八は西郷隆盛に従い、その懐刀として活躍します。寺田屋騒動が勃発した時には、西郷隆盛とともに関与を疑われ、西郷隆盛は沖永良部島へ、村田新八は喜界島へ流罪になりました。

明治新政府が樹立すると、西郷隆盛の推挙で宮内大丞に就任、さらに岩倉使節団として海外を視察しますが、村田新八が帰国した時には、西郷隆盛が明治政府を辞職し、薩摩へ戻っていたのです。

 

当初は西郷隆盛の考えを確かめる為に薩摩入りした村田新八でしたが、東京に戻らずに西郷隆盛と行動を共にします。西郷隆盛が設立した私学校で、元藩士の若者たちを教育しますが、西南戦争が勃発すると、三番大隊指揮長として前線に立ちます。

鹿児島へ退却した村田新八は、大切にしていたアコーディオンを燃やしました。そして城山で西郷隆盛の最期を見届けると、新政府軍に突撃して戦死しました。今回は大久保利通の右腕にもなったかもしれない、戦場のアコーディオン弾き、村田新八をご紹介します。

 

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薩摩藩士・村田新八の人物像。

(城山から見た桜島 提供:写真AC)

村田新八が生まれ育った加治屋町は、鹿児島中央駅から徒歩15分程の位置にあります。当時の加治屋町はわずか200メートル四方の区画でした。
薩摩藩では「郷中教育」が行われていました。

城下に区画ごと、数十戸を単位として、30ほどの郷中が存在しました。郷中には、6歳から20代半ばくらいの武家の子供たちで構成されていました。

郷中では年上の青年たちから、子供たちが様々な教育を受けます。読み書きはもちろん、四経や五経など勉学を教わり、武術の稽古をつけられ、時に武士としての心得を指導されました。郷中教育という独自の教育システムを持つ薩摩藩で、村田新八は西郷隆盛をよく慕うようになりました。

 

加治屋町で育った2人の関係は、やがて村田新八を「西郷隆盛の懐刀」と言うにふさわしいものになります。多感な時分から西郷隆盛から大きな影響を受けた村田新八の人物像を探ります。

当時の記述だと、村田新八は顔立ちはいかつく、身長は180センチ、眼光は光り輝き、落ち着いた立ち振る舞いで、度量のある人物であったそうです。

外見については、パリやニューヨークで撮影された村田新八の写真が現存しています。30代半ばの村田新八は、写真で見ても大柄で、いかつい顔という印象を受けます。

 

村田新八には面白いエピソードがあります。

岩倉使節団が米国に到着した時のことです。使節の誰もが現地で立派な洋服を仕立てます。しかし村田新八は、日本で用意した服のままでした。

「外見よりも中身が大事だ」と、村田新八は言ったのです。

岩倉使節団の公式記録を編纂した久米邦武は、村田新八のことを寡黙ながらも頑固党の棟梁株のわるものだと、親しみを込めて評しています。

 

また、村田新八には薩摩男児には珍しい一面がありました。

同時代、西郷隆盛につき従った中村半次郎や篠原国幹などの薩摩藩士に音楽や美術を好むような人物は見当たりませんが、村田新八は音楽や美術に造詣が深く、芸術をよく好みました。

 

アメリカでアコーディオンを購入すると、自在に奏でられるまでになります。パリ滞在中にはフロックコートを新調、シルクハットをかぶり、オペラ座に通いました。和歌や漢詩の才能もあり、村田新八による多くの書簡が現存しています。

村田新八が兄事した西郷隆盛が「村田新八は智仁勇の三徳を備えた人物なのだから、みなもよく模範とするように」と、薩摩の若者たちに言うほど、その人物を評価していました。

島津久光に流刑にされる。しかし、西郷隆盛に救い出される。

(沖永良部島 提供:写真AC)

京都伏見の旅籠寺田屋は、2度も幕末の大きな事件の舞台となりました。

1866年、寺田屋を定宿にしていた坂本龍馬が、滞在中に襲撃され負傷しながらもピストルを発砲してからくも脱出した事件が有名ですが、その4年前、寺田屋では薩摩藩士同士による斬り合いが勃発し、9人が命を落としました。

この寺田屋事件への関与を疑われた西郷隆盛は沖永良部島へ流罪を言い渡されます。西郷隆盛と行動をともにしていた村田新八も同罪とされ、喜界島へ流罪となります。

 

村田新八は喜界島で2年間を過ごします。喜界島での生活の様子は、村田新八がつづった「宇留満乃日記」より知ることができます。

1864年、放免された西郷隆盛は、喜界島によって村田新八を薩摩まで連れ帰りました。この時、村田新八は放免されていませんでした。藩主の許可なしに罪人を連れ帰ることは、西郷隆盛にとってとても危険な行動でした。

この件で、村田新八はさらに西郷隆盛を信頼し、尊敬することになります。

 

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大久保利通に高く評価されるが、明治政府を辞める。

(大久保利通の銅像 提供:写真AC)

岩倉使節団に参加して、アメリカからヨーロッパ、さらにアジアの植民地を視察した2年、村田新八は大久保利通とともに世界を渡りました。

岩倉使節団に参加した薩摩出身者は、村田新八と大久保利通のわずか2人。
明治政府内で村田新八への期待が高かったことがわかります。

「新八が東京におれば、わが党の重きをなすに違いない」と、村田新八を高く評価していた大久保利通は、帰国後には明治政府内で重要な役割を果たしてもらおうと考えていました。

 

そのため、村田新八は大久保利通に命じられ、海外視察を半年延長することになりました。しかし、村田新八が使節団より半年遅れて帰国した時には、すでに征韓論に破れた西郷隆盛が官を辞して薩摩へ帰郷していました。

村田新八は大久保利通の考えをよく聞いたうえで、西郷隆盛にも話を聞くために、1度官を辞して薩摩へ向かいました。

しかし、村田新八は東京には戻らず、西郷隆盛のもと薩摩に残ることを選びました。東京には「これまでの西郷隆盛との関係を考えると、東京に戻ることはできない」という内容が書かれた村田新八からの手紙が届きました。

 

村田新八に期待していた大久保利通は、ひどくショックを受けたといいます。しかし村田新八は、大久保利通の言い分も、西郷隆盛の言い分も、どちらにも非の打ち所がないと考えていました。

そのうえで、これまで築き上げた西郷隆盛との関係を選んだのです。薩摩へ帰郷した村田新八は、西南戦争の終結まで西郷隆盛と行動をともにします。

村田新八の最期。西南戦争、城山で戦死。

(城山より臨む桜島 提供:写真AC)

西南戦争が勃発すると、二番大隊指揮長となった村田新八は、フロックコートとシルクハットという服装で熊本城総攻撃の背面軍を指揮します。

薩摩軍の出兵を決める軍議で、村田新八は沈黙を通したと言われています。
岩倉使節団の一員として世界を周り、他の誰よりも見識が深く、大久保利通の考えを理解していた村田新八は西南戦争に反対だったのかもしれません。

 

しかし、田原坂の戦いに敗戦すると、いよいよ薩摩軍は人吉に退却します。
村田新八は人吉の戦いを指揮しますが大敗、和田峠の戦いでは西郷隆盛と並んで指揮をとりますが再び大敗し、鹿児島へと退却を余儀なくされます。

戦況は苦しいものでしたが、村田新八はアコーディオンを演奏し、若い兵たちを元気付けていました。

(西郷隆盛の墓 提供:写真AC)

城山の決戦前夜、村田新八は大事にしていたアコーディオンを燃やしました。そして西郷隆盛の自刀を見届けると、村田新八は城山を駆け下り、新政府軍に突撃して最期を迎えました。

勝海舟は「大久保利通に次ぐ素晴らし人物だった」と、村田新八の死を惜しんだことが伝えられます。

城山から新政府軍に包囲される様子を見て「近い将来、外国と戦争するのにいい練習になる」と笑ったという逸話がある村田新八は、現在鹿児島市内の南洲墓地で西郷隆盛の隣で眠っています。

 

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