(川村清雄作『徳川慶喜』 提供:GAHAG 著作権フリー写真集

徳川幕府を終わらせた将軍・慶喜。江戸時代を終わらせた愚帝か、近代化のために幕を引いた賢帝か、意見のわかれるところです。混乱の時代に、ラストショーグン慶喜はどのように生き、どのような余生を送ったのでしょうか。

 

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教育パパ斉昭に厳しく教育される。聡明で勉強ができた。

(徳川斉昭像 提供:写真AC

水戸の第9代藩主・徳川斉昭の七男として慶喜は誕生しました。水戸には黄門様で有名な光圀以来、「水戸で教育する」という慣習があり、慶喜も生まれて七ヶ月目に水戸へ送られます。

礼儀に厳しかった斉昭は、慶喜の寝相の悪さを直すために枕の両側にカミソリを立てて寝かせたというほどのスパルタ。今なら虐待で逮捕されます。

そんな父親の期待に応え、慶喜は聡明な子に育ちます。斉昭も慶喜の賢さを高く評価したようで、跡継ぎにできない七男などは養子に出すのが当たり前であるのに、ずっと手元に置いていたといいます。

しかし、12代家慶から慶喜を御三卿であった一橋家の世継ぎにしてほしいと乞われ、斉昭は仕方なく養子に出したのです。慶喜9歳のことでした。

将軍就任までの経緯。13代は失敗、14代は病死。次に将軍になる。

(江戸城 提供:写真AC

家慶は聡明な慶喜に将軍を継がせたいと思っていましたが、時の老中阿部正弘が反対し、13代には病弱な家定が収まりました。案の定ろくに仕事ができません。そこで次期には慶喜を推す声が出たのを、家定自身が紀州の家茂にすると決めてしまい、14代は家茂になりました。

家茂は和宮と結婚するなど、公武合体に協力しますが、わずか20歳で病没。このとき次の将軍を宗家に近い4歳の徳川家達にと遺言しましたが、幕末で攘夷派と開国派が一触即発のときに心もとないということで、ついに慶喜が15代将軍となったのです。

 

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もっと評価されていい理由。大政奉還=植民地支配の危機を回避。

(京都二条城 大政奉還150周年記念イベントが行われた 提供:写真AC

持ち前の賢さを発揮して、慶喜はつつがなく幕府を運営していきます。しかし、幕府の弱体化はいかんともしがたく、慶喜の大胆な改正はいっこうに功を奏しません。

一方で、薩長連合の脅威が幕府に迫っていました。倒幕へ突き進む連合が佐幕派と対立し、国を二分する内乱になることを怖れた慶喜は、政権返上を決意します。内乱ともなれば他国が干渉してくるのは明白です。日本を舞台に欧米列強が争い、廃墟となってしまっては植民地となるだけです。

この返上、つまり大政奉還によって薩長を抑え、平和的に国体を変える方針にシフトしたのです。おそらく時代が違えば慶喜は名君となったでしょう。生まれた時代が悪すぎました。結果、徳川幕府を終わらせた悪名をかぶることになったとはいえ、このときにできる最善策を取った勇気ある英断だったのです。

大政奉還後は大変な目に遭うが、晩年は趣味のカメラに興じる。

(慶喜は真剣にカメラマンを目指したこともあるそう。提供:写真AC)

大政奉還後、徳川根絶やしに燃える薩長の追撃が強まり、命の危険にさらされますが、勝海舟などの助力もあり慶喜は生き延び、静岡で余生を送ります。

静岡では「ケイキさま」と呼ばれ、親しまれたそうです。慶喜はカメラが趣味で、雑誌に何度か写真を投稿しています。この時代にカメラ遊びというのも殿様らしいですが、他にも油絵を描いたりしていて、芸術家肌の人だったようです。のんびりと慶喜は大正2年まで生きていました。

 

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