1864年7月13日、京都東山、清水寺参道にある料亭「明保野亭」に、新撰組隊士と会津藩士20人が乗り込み、料亭内で酒を飲んでいた土佐藩士が会津藩士の攻撃を受けて負傷しました。

この当時、土佐藩の反論は公武合体、会津藩とは友好関係にありました。
会津藩は同盟藩である土佐藩の藩士に、過って怪我を負わせてしまいました。

 

この明保野亭での一件によって、会津藩と土佐藩の関係の雲行きがにわかに危ういものとなります。しかし、負傷した土佐藩士も新撰組と会津藩士に対して背中を向けてしまったことから、士道不覚悟として切腹します。

会津藩士柴司は、5日前の池田屋事件で多数の死傷者を出し、人手が不足していた新撰組に応援に駆りだされていました。

会津藩側は柴の行動を、職務上間違ったものではなかったとしながらも、土佐藩にしめしがつかず苦しい立場となっていました。そのことを知った柴司は、自ら切腹をして事を収めました。

のちに、この一連の騒動を「明保野亭事件」と呼ぶようになりました。

 

もっとも、新撰組は明保野亭で長州藩士たちの密会があるという通告を受けての出動で、もとより明保野亭は志士たちの密会に度々使われており、幕府も新撰組も常に監視をしていたでしょう。明保野亭は坂本龍馬の常宿のひとつでもありました。

現在、この明保野亭は清水参道の産寧坂で営業を続けています。幕末の志士たちが会合し、坂本龍馬が滞在し、新撰組隊士や会津藩士が突入した、明保野亭からレポートをします。

 

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明保野亭に食レポに行ってみた。

新撰組の屯所が置かれた壬生の地から鴨川を越え、松原通を歩き、清水寺参道「産寧坂」を下って行く――現在では市バスを乗り継いで行けますが、新撰組隊士と会津藩士は壬生から明保野亭まで徒歩で移動したでしょう。

当時の人たちの健脚を考慮すると、30~40分程度で移動できたはずです。

 

清水の参拝道として産寧坂が作られたのは808年、平安時代前期のことです。
石畳が敷かれた坂と、瓦屋根の家々が折り重なる美しい景観は、重要建造物群保存地区に指定されています。

この産寧坂の清水道の入口に程近いところに、明保野亭事件の舞台となった、「明保野亭」があります。当時は料亭と旅籠を兼ねていました。

 

 

2階建ての建物が、コの字に玄関先を囲むような造りになっています。入口には「明保野亭」と書かれたのれんが下げられています。明保野亭の店内に入ると、窓側の席へ案内されました。急須に入れられた温かいお茶が運ばれてきます。緑茶です。

メニュー表を見てみると、竜馬御膳、京の生湯葉御膳など、明保野亭にちなんだメニューや、京都らしい湯葉や京野菜を使ったメニューがあります。

明保野亭は有名な湯葉料理の店です。竜馬御膳と迷いながら、生湯葉御膳を注文。観光客の多い産寧坂ですが、明保野亭の店内はとても静かです。

明保野亭のコの字の内側に面した窓側の席からは、明保野亭の建物をよく見ることができます。閉じられた井戸がありますが、当時は開いていたのでしょうか。生湯葉御膳が運ばれてきました。

 

湯葉刺、そうめん、2種類の小鉢、ごはんと味噌汁、そして漬物がセットになっています。湯葉刺には菊の花、そうめんにはえびがのり、柴漬けの鮮やかさと合間って、とても華やかな御膳です。

湯葉は舌触りがとてもなめらかで、味わい深く、そうめんもあっさりとしていながら具のおいしさを味わうことができます。老舗と言うにふさわしい、全体的に素材を生かす薄味で、とても上品な仕上がりです。

 

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明保野亭事件に関するエピソード。

明保野亭事件の時、柴司が使っていた鎖帷子と槍は、新撰組の永倉新八のもので、後に柴司の兄が貰い受けたいと申し出ました。柴司の介錯は、この兄、柴秀治が務めています。

永倉新八は鎖帷子と槍を柴秀治に贈りました。永倉新八の記録によると、
「天下のためにこれを身につけて討ち死にする」と言ったそうです。

 

また、明保野亭事件には次のようなエピソードもあります。

柴司の葬儀に、多くの新撰組隊士が参加しました。副長・土方歳三は、柴司の遺体に触れ、涙を流したそうです。

明保野亭を後にして表へ出ると、産寧坂を行き交う観光客の賑やかな笑い声が飛び込んできます。産寧坂を見下ろすこの素晴らしい景観を、幕末の志士たち、坂本龍馬、あるいは新撰組隊士、そして柴司は、どのような思いで見下ろしていたのでしょうか。明保野亭を振り返り、産寧坂を下りて行くのでした。

 

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