1867年6月15日、西本願寺関係者一同の念願叶ったり、幕府直参となった新撰組は、ようやく西本願寺から不動堂村へ屯所を移します。

幕府直参の身分にふさわしい、大名屋敷さながらの立派な屯所の敷地は約1万平米あり、表門、高堀、玄関、長屋、客間、物見、馬屋などが設けられ、大浴場は30人が1度に入ることができました。

壬生の屯所にいた頃は、幹部も隊士も関係なく雑魚寝していた新撰組でしたが、不動堂村屯所には局長・副長・幹部それぞれの部屋が用意され、平隊士たちの生活スペースもじゅうぶんに確保されました。

 

もっとも、不動堂村の新撰組屯所は、西本願寺が全費用を負担し、移転が実現したものでした。

西本願寺では新撰組に境内の一角を屯所として利用するようになってから、境内で大砲を撃ちかまされ、家畜が飼われ、その肉が調理され、そして日常茶飯事に切腹が行われ……とても寺社のそれとは思えない有様となっていました。

莫大な屯所移転費用を全額肩持ちしたとしても、西本願寺は新撰組に出て行ってもらいたかったのです。

 

しかし新撰組最初の屯所、壬生の八木邸、前川邸、2番目の屯所、西本願寺は現存していて、所在地もはっきりとわかっているのに対し、不動堂村の屯所は正確な所在地が判然としていません。

現在、京都駅周辺、主に堀川方面に、新撰組幻の不動堂村屯所跡をしめす石碑がいくつか見られます。幻の不動堂村屯所をたずねます。

 

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複数ある屯所跡。本物はどこ?

京都駅には商業施設が設けられ、多くのテナントが入り、百貨店、家電量販店なども隣接し、駅前からは京都タワーを見上げることができます。

京都駅周辺は、京都市内でも河原町方面と並んで賑やかな地域となっています。京都駅烏丸口を出て、堀川方面へ歩きます。

駅ビルに沿って歩いて行くと、道幅が狭くなっていきます。高層ビルに囲まれ、昼間でも薄暗い印象ですが、コンビニやビジネスホテル、会社が建ち並び、人通りも多い界隈です。

いくつか小さな洞を見かけました。ハローワーク京都七条、京都国道事務局の建物を通り過ぎ、入り組んだ路地を抜けると、油小路通に出ます。

 

塩小路方面にビジネスホテルやコンビニと並んで、新撰組のシンボル、ダンダラ模様と誠の文字が浮かぶ提灯が提げられた古い家屋が見えます。

正面に行って確認すると、「西山浄土宗・不動堂明王院」と掲げられています。新撰組・まぼろしの屯所と書かれた提灯も出ていました。

不動堂明王院から塩小路通へ出て、京都駅方面に1丁ほど戻ります。
交差点の角地にあるホテル「京湯本 ハトヤ鳳凰閣」の前に石碑があります。

 

「此付近 新撰組最後の 洛中屋敷跡」と刻まれています。不動堂明王院、ハトヤ鳳凰閣近辺は、現在でも「南不動堂町」として住所に残っています。

ハトヤ鳳凰閣から、塩小路通を堀川通へ向かって歩いて行きます。
交通量の多い堀川通を渡ると、リーガロイヤルホテルがあります。

 

塩小路通と堀川通が交わる交差点に近いホテルの敷地内に、黒い石に赤い「誠」の文字が目立つ石碑があります。

「この付近 新選組 不動村屯所跡」、そしてその後に「事あらば われも都の 村人となりてやすめん 皇御心」という局長、近藤勇の句が続きます。

一般的に新撰組不動堂村屯所跡としてよく知られているのが、このリーガロイヤルホテル近辺です。

 

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リーガロイヤルホテル近辺の可能性が高い。

不動堂村は平安時代後期から鎌倉時代にかけては「八条院町」と呼ばれていました。鋳物生産が盛んに行われていた工業地帯として発展していました。

戦国時代頃、一帯は農村となっていましたが、豊臣秀吉が作った御土居の郭内にあったため、「洛中」として都市の一部に扱われました。江戸時代になると茅野郡不動堂村が作られ、やがて新撰組の屯所が造営されるに至ります。

 

しかし不動堂村屯所について、現存する資料は少ないのが現状です。

局長、近藤勇の甥で新撰組に所属していた宮川信吉は「七条通下ル」、新撰組の幹部であった永倉新八は「七条堀川下ル」と証言しているので、南不動堂町から堀川通をはさんでリーガロイヤルホテル近辺に、不動堂村屯所があったと見て間違いはないでしょう。

 

新撰組が不動堂村に屯所を構えたのはわずか6ヶ月。
時代は戊辰戦争に突入します。
新撰組不動堂村屯所跡は、大正時代の地図にはすでにありません。
そうそうに消失したものとみられます。

リーガロイヤルホテルから堀川通にかかる歩道橋に上がります。
歩道橋からはかつての不動堂村一帯を見渡すことができます。
新撰組不動堂村の屯所の幻を、ビル風の中に追いかけるのでした。

 

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