島原は江戸時代以来、公許の花街として栄えました。

遊宴の場を提供するだけでなく、島原では和歌、俳諧などの文芸も盛んで、江戸中期には島原俳壇が形成されるほどでした。

明治以降、花街としての島原は次第に衰退し、現在では揚屋の角屋、置屋の輪違屋だけが営業を続けています。風雲急告げる幕末、島原には尊皇攘夷派の志士たち、新撰組の隊士たちが通い詰めました。

堀川通から花屋町通を進み、島原をたずねます。

 

スポンサーリンク

 

島原大門と見返り柳

(見返り柳)

堀川通沿いに広がる西本願寺に東側が、花屋町通になります。
西本願寺を壁伝いに歩いて行くと、大宮通に突き当たります。
大宮通を渡り、花屋町通を歩き続けます。

西本願寺を過ぎると、一帯は比較的古い建物が残る住宅地という印象です。
豆腐屋さんが仕込みをしています。制服姿の高校生が、自転車で駆け抜けて行きます。しかし、その一方で、揚屋や置屋を髣髴とさせるような、連子窓、手摺を持つ建物が見られます。

花屋町通を歩いて15分ほどで、住宅地の中に突然、島原大門が姿を現しました。大門の右手には石碑が設置されています。石碑には島原について説明が書かれていました。この島原大門の横にある柳は見返り柳と呼ばれました。

遊郭で遊んだ男が、帰り際に柳のあるあたりで名残を惜しんで後ろを振り返ったことから、この名前がついたと言われています。

幕末の志士や新撰組の隊士たちも、この柳の前で立ち止まり、名残を惜しんで大門を振り返ったのでしょうか。

角屋

(島原角屋)

大門をくぐり抜け、輪違屋角屋へ向かいます。
輪違屋と角屋は花屋町通を挟んで同じ坊城通に建っています。

現代の住宅地にあって、江戸時代中期に建てられた輪違屋と角屋がある坊城通だけが、まるで幕末当時そのままの姿を留めているかのようでした。

島原では太夫や芸妓を抱える置屋から、宴会が催される揚屋へと太夫、芸妓を派遣していました。1641年に建てられた角屋は揚屋建築で唯一、国の重要文化財に指定されています。

角屋に置かれている絵は、当時一流の画家であった応挙や蕪村によって描かれていて、特に蕪村の「紅白梅図」は重要文化財に指定されています。

西郷隆盛、久坂玄端をはじめとした志士たちが、軍資金調達のために角屋に豪商を招いて会議をしたという記録もあります。

 

スポンサーリンク

 

輪違屋

(輪違屋)

一方、輪違屋の建物は、1857年に建てられ、昭和59年に京都市の有形文化財に指定されました。創業は1688年、300年以上の歴史を誇り、現在では太夫を抱え、置屋兼茶屋として営業しています。

輪違屋には「観覧謝絶」と書かれた看板が出ていて、これはいわゆる一見様お断りを意味しています。輪違屋の1階には近藤勇が書いた屏風、2階には桂小五郎が書いた掛軸があります。

 

■新撰組が足しげく通った島原

当時、島原には尊皇攘夷派の志士たちが多く潜伏し、拠点として動いていました。もともと警察組織が入りにくい場所だったからです。そのため、志士たちは島原で会合を開いたり、待ち合わせの場所に用いました。

京都の治安維持を仕事とした新撰組は、幕府の役人でも踏み込むことが難しかった島原にも、志士たちを捕縛する為に入り込んでいます。

 

また、この新撰組の隊士たちも、壬生村の屯所、2番目の屯所となった西本願寺ともに島原の近くにあり、プライベートでよく遊びに訪れていました。
幹部から平隊士まで新撰組総出の祝宴も、度々島原で行っていたようです。

島原の女性たちは、尊皇攘夷派の志士たち、あるいは新撰組の隊士たちに想いを寄せることも少なくなかったといいます。

志士や隊士、そして彼らに愛され、彼らを愛した女性たちに思いを馳せ、島原大門をくぐり抜け、柳の前で1度振り返ってみるのでした。

 

スポンサーリンク