平安京の時代、湿地だったことから「壬生(みぶ)」と名付けられた四条大宮より西の一帯では、平安時代初期に壬生寺が創建され、鎌倉時代には壬生狂言が始められ、現在では重要無形民族文化財に登録されています。

鉦(かね)や太鼓の音から、「壬生寺のカンデンデン」と親しまれる壬生狂言が有名な壬生寺ですが、幕末には大砲の轟音が鳴り響いていました。

治安維持組織である新撰組が、壬生寺で武術や大砲の訓練をしていたのです。1863年3月、後に新撰組と称される浪士組が、壬生に屯所を構えるようになったからです。そのため、当時は「壬生浪士組」、時に「みぶろ」と呼ばれていました。当時の新撰組の足跡が多く遺される壬生寺をたずねます。

 

スポンサーリンク

 

阿弥陀堂では、おみくじや新撰組グッズを販売。

JR京都駅32番線ホームから発車する嵯峨野線、園部・福知山方面行きに乗ります。早朝、車内は同じ制服を着た高校生たちで混雑していました。1駅目の丹波口駅で下車。高校生たちも雪崩のようにホームへと降りていきます。

丹波口駅から千本通を歩いて行くと、右手に光徳公園が見えてきます。公園の隣に学校があります。丹波口駅で降りた高校生たちは、この学校の生徒だったようです。光徳公園を通り抜け、松原通に出てから、坊城通に入ります。

道幅の狭い住宅地をまっすぐに歩いて行くと、仏光寺通へ出た交差点に、「壬生寺」と刻まれた、ちょうど膝ほどの高さの石碑を見つけました。
土色の壁に沿って歩いて行くと、ほどなく壬生寺の正門にたどり着きます。

 

住宅地の中、壬生寺の入口だけが広々としています。
左右に大きな石塔があり、とても立派な「壬生寺」と刻まれた寺号標柱が建っています。門構えも素晴らしく、「壬生延命地蔵尊」と書かれています。

この表門は1799年に再建されたもので、新撰組隊士たちもこの門をくぐって境内へ入っていたのです。表門すぐの建物が阿弥陀堂で、歴史資料室も兼ねています。この阿弥陀堂から、新撰組隊士の墓がある壬生塚へ入ることができます。

 

本尊の「地蔵菩薩像」は平安時代に唐招提寺から移されたもので、重要文化財にも指定されています。最初に本尊をお参りし、いよいよ阿弥陀堂へ。

阿弥陀堂に入るとすぐにカウンターがあります。お守りやおみくじと一緒に、新撰組グッズも販売されています。新撰組デザインの御朱印帳まであります。カウンターで壬生塚への入場券を購入し、まずは順路に沿って地下の資料室を見ます。

資料室には壬生狂言に関わる貴重な品々とともに、新撰組ゆかりの品々が多数展示されています。新撰組隊士たちが壬生狂言を鑑賞したという記録があります。当時も使われていたであろう、展示されている面を見ていると、狂言を楽しむ隊士たちの顔が浮かぶようです。

 

スポンサーリンク

 

壬生塚には新撰組隊士の墓がある。

資料室を出て、いよいよ壬生塚を参ります。
朱色の欄干の小橋を渡ると、まず三橋美智也が歌う『あゝ新撰組』の石碑が目に飛び込みます。

壬生塚の奥へ進むと、新撰組の隊服がデザインされた絵馬がかけられる横に、局長・近藤勇の胸像があります。この壬生塚には、もうひとりの局長・芹沢鴨をはじめとした、7人の隊士の墓があります。

芹沢鴨、平山五郎は壬生の屯所内で、近藤勇一派の手によって内部粛清されました。池田屋事件で命を落とした2人の隊士も、ここに合祀されています。

 

壬生の地に新撰組が屯所を構えたのは2年あまりでしたが、新撰組は西本願寺へ屯所を移してからも、大砲訓練はこの壬生寺で行った為、頻繁に足を運んでいました。

この壬生寺では沖田総司が、近所の子供たちを集め、鬼ごっこやかくれんぼなどをして遊んでいたり、新撰組が相撲興行を企画し、興行に来た力士たちに、境内の池の魚やすっぽんを使った手作りの料理を振るまったなど、おもしろいエピソードが多く残されています。

現在、壬生寺の敷地内には、保育園が併設されていて、ママチャリに子供を乗せたお母さんたちが境内を行き交う姿が見られました。

沖田総司と子供たちが遊んでいた幕末と同じように、壬生寺には子供たちの明るい笑い声が響き渡っています。

 

スポンサーリンク