(毛利邸 提供:写真AC

雄藩に存在感のある主はつきものですが、ちょっと地味な長州藩主・毛利敬親。つかみどころのない暗愚に見えて、実は長州の幕末の活躍は敬親なしには考えられません。優秀な人材を育て、使う太っ腹殿様の藩政とは?

 

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そうせい侯と揶揄されるが、自分で決断もした。

13代長州藩主の毛利敬親は、またの名を「そうせい候」といいます。保守派の意見だろうと、改革派の意見だろうと、答えはいつも「うむ、そうせい」と賛成してしまうところからつけられたあだ名です。なんと無責任な藩主だろうと思いますが、藩政改革、新式武器の購入、版籍奉還など、肝心なところは自分で決めたりしていました。

敬親は身分に囚われず、優秀な人材と見込んだらどんどん起用する器があって、吉田松陰を見出しただけでなく、自ら松陰の門下生になるような謙虚な心の持ち主だったようです。ために民衆から愛され、多くの人材が「敬親さまのご恩に報いよう」としたのです。長州が人材の宝庫であるのは、この敬親の鷹揚な姿勢と無関係ではないでしょう。

人材育成にも熱心で、留学なども積極的にやらせていたといいます。なんでも「そうせい」と言ったのには、長州で保守と革新の対立が大きかったという見方もあります。下手に逆らって藩の体制が崩れないように配慮していた様子も敬親には見られるのです。

村田清風を登用して、藩政改革を断行。

村田清風は藩校の明倫館で優秀な成績をあげ、長く長州藩に尽くした学者です。敬親はこの清風に藩政改革を任せます。そうせい候の元で、清風は自由に改革を進められました。

財政再建で家臣と商人との癒着をやめさせ、運上銀を課税して自由取引をできるようにしました。下関海峡に貿易会社を設立、庶民層への教育強化など、大規模な改革を次々導入し、藩の財政を再建しました。

これらは長州の天保の改革といわれています。質素倹約と貨幣流通も改正。清風が亡くなると、坪井九右衛門を登用し、領内の実態調査、練兵など各方面から長州を変えていきました。

これらの政策によって萩には吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文らが育つ下地を作ったのです。これだけより取り見取りの人材がいるのですから、「そうせい」だけで済んだということかもしれませんね。

 

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大規模な軍事改革を行い、倒幕にも貢献。

黒船が来航すると、関門海峡周辺はきな臭くなってゆきます。現在でも海運の要所ですからね。地理的に長州は特に外国船の襲来には神経を尖らせることになります。

藩内にも攘夷の気運が高まり、外国船打払いを開始するのですが、これが大苦戦。池田屋事件、禁門の変で多くの人材を失ったことも重なり、長州は追い詰められてゆきます。

敬親は大村益次郎を抜擢し、西洋式の軍政へとシフトします。兵器を揃え、奇兵隊などの整頓を行い、列強に引けを取らない軍隊を作り上げます。

これがその後の倒幕に貢献したことは言うまでもありません。

 

明治になると敬親は版籍奉還に尽力し、家督を譲って隠居します。そうせい候と馬鹿にされる敬親ですが、長州を雄藩へと育て上げた立派な藩主だったのです。

敬親の身分にこだわらない政治は、当時としては珍しい、革新的なものでした。自分にできないことは景気よく人に任せ、決断するときはきっちりやる。この度量の大きさは見習うべきことです。

現代なら「上司にしたい有名人」のトップも狙えるでしょう。敬親なしで長州の名誉はあり得なかったのです。

 

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