(広島 原爆ドーム 提供:写真AC)

太平洋戦争末期に起きた広島への原爆投下
人類史上初の核兵器が使用されたこの最悪な事件を解説します。

 

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広島原爆ドーム。有名なあの建物が持つ意味。

(広島・原爆ドーム 提供:写真AC)

広島への原爆投下を象徴する建物として原爆ドームがあります。平和公園とは元安川を挟んだ対岸にあり原爆の被害を人々に伝える遺産のことです。

この建物はそもそも「広島県立商品陳列所」「広島県産業奨励館」と呼ばれる広島県産の製品を販売する商工業の拠点として建てられたものです。

しかし、1945年8月6日に、広島に原爆が投下されます。その際、原爆の爆発がほぼ真上で起きたにも関わらず建物の原形を留めていたのです。

原形を留めつつも壊されてもいる。

大きな傷を残しながら建つ姿は原爆の惨劇を静かに語る遺産として1996年に世界遺産として登録されました。

広島に原爆が投下されるまでの米国側の流れ。

(提供:写真AC)

アメリカは原爆投下をどう決断したのでしょう。

アメリカが原爆の実用段階に入った1945年(昭和20年)7月の時点で第二次世界大戦はもはや日本だけが連合国と戦う状態になっていました。

しかし、当時はまだ米国側でも原爆投下には慎重な声も多かったのです。

原爆を開発した科学者の中には反対意見を表明するものもいたし、ルーズベルトの死去で副大統領から大統領に就任したばかりのトルーマンも原爆使用には当初消極的でした。

しかし、トルーマンが大統領であった時の1944年(昭和19年)9月に行われた第2回ケベック会談でイギリスとカナダに日本への原爆使用の予定が告げられていました。

また、1944年12月には原爆投下を行う部隊も編成され1945年5月には既に具体的な原爆投下目標となる都市の選定が行われていました。

あとは原爆の完成とトルーマン大統領の決断だけです。

 

1945年7月26日、アメリカなど連合国は日本へ降伏を勧告するポツダム宣言を通告。実は、その前日には原爆投下の指令書が出されていました。

ポツダム宣言への日本側の回答前に原爆投下は決まっていたのです。

これには諸説あって「戦争終結後の世界でソ連より優位に立つため、ぜひとも原爆使用をしたかった」「膨大な開発費がかかっていたため」など、さまざまな理由が考えられていますが、未だにはっきりとは分かっていません。

トルーマンが原爆承認した記録はなく、誰が決断したのかも未だに謎です。

推進したのは原爆開発の責任者であるグローブス陸軍少将やアメリカ陸軍が実行に向けて進めていた可能性はあります。

 

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広島での死者数は約14万人。その後、後遺症で苦しむ人が続出。

(原爆ドームの説明 提供:写真AC)

1945年(昭和20年)8月6日に広島市へアメリカ軍は原子爆弾「リトルボーイ」を投下します。高度600メートルで炸裂した原爆は1発で広島市を壊滅させます。

人的被害も大きく爆心地から1.2kmではその日の内に50%が死亡し、周辺地域でも80%以上の高い死亡率となる大変な惨劇となりました。

2000~6000度にもなる想像を絶する熱線が人体を蒸発させました。
あまりの熱戦で、人が影のように地面や建物に残る現象が起きました。

 

運良く蒸発せずも、火傷が治らずにケロイドとして残りました。
さらに原爆の炸裂で飛び出た放射性物質は、人体の組織を破壊して白血病やガンなどが発病する後遺症を残しました。

原爆での死者は、1945年12月までに14万人と言われています。

しかし、戦後も悲劇は続きます。

被爆者が後遺症に苦しみます。また、被爆者の子供も原爆の後遺症で苦しむことになります。2017年現在の被爆者健康手帳を持つ人の数は全国で16万人その内広島県での所持者は2万人以上です。

現在も多くの人が原爆によって苦しんでいます。

原爆が投下された時間と黙祷のやり方。

(原爆ドームと鳩 提供:写真AC)

広島市では毎年8月6日に平和公園で平和記念式典が行われます。
広島県知事に広島市長のみならず総理大臣も参加して、被爆者や一般市民の方々が参加します。近年は外国人の方々の参加も目立ちます。

この式典は原爆が炸裂した午前8時15分になると全員で黙祷(もくとう)が捧げられます。広島県内では小学校と中学校でも登校日にして生徒と教職員が時間に合わせて黙祷します。

黙祷は立って少し頭を下げ、目をつむり亡くなった人々の冥福を祈ります。
黙祷は1分間静かに行われます。心をこめて平和を祈りましょう。

 

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