薩摩の長・島津久光。実は藩主ではなく、その後見人として薩摩の実権を手中にしていただけでした。武士社会最後の砦として期待されながら、西郷隆盛や大久保利通らと対立することが多く、数々の問題を起こしています。

 

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寺田屋事件の真相。攘夷決行を知り、久光が薩摩藩士を送る。

(京都の寺田屋:提供 写真AC)

名君・島津斉彬の跡を継いだ忠義に代わり、薩摩の事実上の最高権力者だった後見人の久光は、尊皇派の希望でした。大藩の薩摩は最強の軍隊を持ち、常に徳川幕府を脅かしてきた強敵。「きっと薩摩が倒幕してくれる」と勝手に期待していたのですが、久光自身は公武合体を考えていたらしいです。

しかし、尚武の気風が強い薩摩には攘夷派も多く、京都では過激な薩摩藩士がある計画を立てていました。それは朝廷と幕府の要人を斬り、久光に首を献じて、無理にでも蜂起させるというものです。

反幕府にされては久光もたまりません。過激藩士が京都の寺田屋に集まるのを察知した久光は、粛清のための刺客を手配します。そして、薩摩藩士が同士討ちをするという寺田屋事件が発生します。薩摩の内部騒動ですが、この身を切る鎮撫は久光の忠誠を示すこととなり、朝廷内での評価を高めることになりました。

 

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英国人が久光の行列を素通り。薩摩藩士が激怒、生麦事件が発生。

(提供:写真AC

久光がらみの騒動で、もっとも有名なのは生麦事件でしょう。江戸から京都に戻る途中、現在の横浜市鶴見区の生麦で、馬に乗ったイギリス人4人が久光の行列と鉢合わせ、無礼を働いたという理由で薩摩藩士に斬りつけられたのです。

無礼といっても相手はイギリス人。日本の風習には不慣れだったのです。そのため、不運というしかありません。当然イギリス側は激怒します。幕府と薩摩に賠償金を要求、さらに横浜に英米仏蘭の艦隊を並べ、プレッシャーをかけてきました。

幕府は渋々従うも、武を尊ぶ薩摩隼人は徹底拒否。逆に、イギリス艦隊に砲撃するという、この強気が薩摩の心意気といったところ。薩英戦争の始まりです。

戦闘に長けた薩摩軍は、大英帝国に一歩も引けを取りません。最終的に、薩摩が賠償金を払って講和するのですが、薩英はとても親密な関係になりました。その後は、イギリスの協力によって、薩摩は倒幕の力をますます高め、ついには徳川時代を終わらせることになったのです。

久光、廃藩置県に抗議。花火をぶっ放す!

(提供:写真AC)

明治になってからも久光は鹿児島の権力者でした。版籍奉還が行われ、藩は政府のものとなっていましたが、知事は元藩主がそのまま就任していたので、実質は、江戸時代の藩と変わりがなかったのです。

これはいかんと新政府も考えたのでしょう。そこで廃藩置県を断行します。これは藩を県にして、旧藩主の権限もなくするというものでした。薩摩の地に700年も君臨してきた島津家としてはあり得ないことです。

しかし、久光とてどうすることも出来ません。抗議の意思を示すべく、自宅の庭で、花火を一晩中打ち上げたそうです。新政府は大久保利通ら薩摩出身者が多く、久光も元の家来に引きずり降ろされたという怒りもあったでしょう。また、薩摩島津の最後っ屁みたいな気分だったのかもしれません。

その後、久光は死ぬまで髷を結い、帯刀していたそうです。明治20年、日本の近代化を横目に、久光はラストサムライとして永眠。鹿児島で国葬されたのでした。

 

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