(高知城。容堂も高知城下で生まれた。 提供:写真AC)

幕末時、南国土佐を拠点に威勢を振るった山内豊信。というより山内容堂と呼ぶほうが馴染みあるのではないでしょうか。容堂は隠居後の名前だそうです。戦国時代の名将・山内一豊の血筋ですが、この容堂さん、かなりハチャメチャだったようで・・

 

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酒好き・女好きとして知られた山内豊信(容堂)の人物像。

(提供:写真AC)

山内豊信(容堂)は1827年に誕生しました。山内家の中ではランクは下のほうだったのですが、先代の豊惇が急死して、跡継ぎ予定だったその弟・豊範が幼かったために、運よく抜擢されたのです。豊信はずいぶん革新的な人で、因習を嫌って土佐の大改革を進めます。

西洋に学び、軍備や財政に力を入れ、土佐の若手を長崎で勉強させ、身分制度を見直すなど、斬新な政治を遂行しました。幕末、土佐の志士たちが活躍したのも、豊信が敷いたこれらの下地があったからでしょう。

これだけだと名君なのですが、この人はとにかく酒と女が好きなことでも有名で、家には妾を何十人もおき、朝から酒を飲んでいるような殿様だったようです。酔ったまま藩政を決めてしまうなど日常茶飯事。朝廷の会議にまで酔っ払って出席したという逸話もあるくらいです。

ちなみに高知の銘酒「酔鯨(すいげい)」は、豊信が「鯨海酔候(げいかいすいこう)」という号名を好んで使っていたことに由来します。実際に酒乱のクジラ並みに手のつけられない大物だったようですね。しかし、その大胆不敵さが容堂の魅力でもあるのです。

大政奉還を実現させた有能ぶり。その決断のプロセスとは?

(徳川慶喜のイラスト。提供:IilastAC)

豊信は14代将軍を一橋慶喜(のちの15代将軍の慶喜)にしようとして失敗し、安政の大獄で隠居謹慎となりました。容堂と名乗るようになったのはこの頃です。

土佐は豊範が藩主となりましたが、実権は依然容堂が握っていました。応援していた慶喜に大政奉還を突きつけたのがこの容堂です。政権を朝廷に返せと言われても、慶喜にしたら「お前、俺の味方じゃなかったんか?」と反論したいところでしょう。

有名な坂本龍馬の船中八策を聞いた後藤象二郎が、容堂にさも自分が作ったように献策し、容堂も賛同したのですが、その八策のなかに大政奉還・王政復古があったのです。

 

ただ、慶喜も容堂も新政府で徳川家がまだ権力を持てると考えていたような節があり、容堂はその後薩長連合によって慶喜追放となることに猛反対しています。慶喜を裏切ったのではなく、薩長の過激な倒幕思想から慶喜を救えると判断したのかもしれません。

大政奉還は当時の情勢から見れば、徳川家の存続を可能にするウルトラC的な方策です。怒った慶喜とその派閥が立ち上がり新旧政府の激突となってしまうのですが、時勢を読んで大政奉還に踏み切った容堂の「機を見るに敏」の行動は、その有能さのなせる業というところでしょう。

 

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坂本龍馬と接点はあったのか?

(桂浜の坂本龍馬像 提供:写真AC))

土佐と言えばやはり坂本龍馬。船中八策から大政奉還を勧めた容堂とも当然顔馴染みといいたいところですが、龍馬と容堂が面会した記録はありません。

龍馬は脱藩していますから、容堂から見れば裏切者。活躍の噂はお互い聞いていたでしょうが、おそらく会ったことはないと思われます。これはおかしくありません。大会社なら平社員が社長と直接会うなんてありませんからね。殿様の容堂と下級武士の龍馬も同様です。

フィクションでは龍馬の前に立ちはだかる悪役として接点があったように書かれているものもありますが、面識はなかったでしょう。ただ、容堂の参謀役だった後藤象二郎をパイプにして、互いの考えや動向を知っていた可能性はあるかもしれません。

 

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