(提供:写真AC)

土佐勤王党のリーダー武市半平太。どこか堅苦しく、怖い人という印象があります。しかし、土佐の藩士からは慕われたカリスマ革命家でありました。武市のなにが人を惹きつけたのでしょうか。その人物像に迫ります。

 

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自分にも他人にも厳しかった半平太の人物像。

身長180cmのイケメンだったという武市半平太は剣の達人です。江戸では桃井春蔵の鏡心明智流を学び、塾頭として乱れていた道場を清廉に変えたといいます。

武市は自分に厳しく、他人にもそれを求める性格だったようです。尊敬はできるが、あまり友達にはいてほしくないタイプですね。半面、家族思いだとか、甘党の下戸だとか可愛い面もあったりして、厳しくも慕われていたそうです。

江戸にいた頃、長州の高杉晋作や久坂玄瑞らと交流を持ちました。土佐でも自分の道場を持っており、中岡慎太郎や岡田以蔵ら百人以上が学んでいました。これが勤王党の母体となります。

1860年桜田門外の変が起こり、日本中に攘夷の風が吹き荒れた頃、半平太は平田篤胤の思想に感化され、自らも攘夷の意欲を高めてゆきます。

 

土佐勤王党の盟主となる。その活動内容は?

高杉らと交わっていた半平太は、長州に比べ土佐は攘夷意識が低いと感じていました。江戸で土佐勤王党を立ち上げます。坂本龍馬や大石弥太郎らを加えて活動をスタートさせますが、武市は土佐全体を攘夷にすることを強く望んでいたため、意見の違った龍馬はさっさと離党しました。

半平太は土佐の公武合体論者・吉田東洋を暗殺します。藩を掌握すると、今度は京都で佐幕派の多くを暗殺し、テロ行為をするようになっていきます。

この一連の暗殺で有名になったのが「天誅の名人」と呼ばれた人斬り・岡田以蔵です。このように暗躍していた土佐勤王党も、謹慎中の大物・山内容堂が藩政に復職すると、徐々に土佐での活動がやりにくくなっていくのです。

 

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坂本龍馬との関係は?

厳格な半平太と、自由気ままな龍馬。いかにも気が合いそうにありません。実際「武市さんは堅苦しい」「龍馬はいい加減だ」と互いを評しています。

といって、仲が悪かったということもないようです。半平太は土佐を攘夷にすることにこだわり、龍馬は他藩との連携を考えていて、その相違で歩みを同じにしなかったというのが実情でしょう。

岡田以蔵とのゴタゴタ。切腹するまでの流れ。

全国での大規模な攘夷派弾圧が始まり、半平太や岡田以蔵も捕まってしまいます。さすがに半平太は囚人としても威厳を保っていました。

一方、人斬りと畏れられた以蔵はなんと怯えに怯えます。女も耐えられた拷問に泣き叫び、罪を洗いざらい喋ってしまうのです。

この自白で捕縛を免れた党員も捕まり、勤王党は崩壊してしまいます。

 

子飼いの以蔵の裏切り、半平太はどれほど情けなく思ったでしょう。半平太が以蔵を黙らせるために毒殺を命じていたという話がありますが、最近では創作であろうとされています。

1865年、以蔵は28歳で斬首、半平太は37歳で切腹して命を終えます。後年、山内容堂は半平太を生かしておかなかったことを後悔していたそうです。

土佐のカリスマ武市半平太も、幕末の巨人の一人だったのです。

 

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