(高瀬川と桜 提供:写真AC)

梅雨空にどんよりとする1864年6月5日、荷物をのせた小舟が行き交う高瀬川沿いの木屋町通を宮部鼎蔵は足早に進んでいました。

高瀬川沿いには旅籠や荷揚げの店が隙間なく並んでいて、宮部鼎蔵はそのうちの「枡屋」の看板を掲げる商屋に入りました。筑前御用達の割木屋「枡屋」の主人、枡屋喜右衛門が宮部鼎蔵を迎えました。

木屋町の界隈には土佐藩、対馬藩、長州藩、肥後藩、彦根藩などの京都藩邸も多く、あたりの料亭は各藩の尊王攘夷派の志士たちの密会や隠れ家として使われていました。

この枡屋も表向きは割木商でしたが、裏では尊王攘夷派と公家とのパイプ役を受け持ち、京都市中の情報を収集・集積したり、武器の調達など、尊王攘夷派の中でも大きな役割を担っていました。

当時、尊王攘夷派の重鎮として志士たちを取りまとめていた宮部鼎蔵は、人知れず京都に入り枡屋に潜伏します。安政の大獄で処刑された盟友、吉田松陰の志を継ぐように、尊王攘夷活動に奔走していたのです。

 

現代でいうなら研修医のようなポジションだった久坂玄瑞も、九州に遊学した時に熊本在住の山鹿流兵学者であった宮部鼎蔵を訪問しています。

藩医のせがれだった久坂玄瑞の才能を見抜いた宮部鼎蔵は、遊学から戻ったらすぐに長州在住の山鹿流兵学者、吉田松陰に師事するべきだ勧めます。これが松下村塾で久坂玄瑞が学ぶことになったきっかけとなっています。

梅雨明け間近となった6月5日、祇園祭のお囃子が聞こえ始める頃、市中治安維持組織、新選組にマークされていた枡屋は、ついに家宅捜査を受け、多数の武器や尊王攘夷派の志士の血判書などが発見され、枡屋喜右衛門こと古高俊太郎は連行されます。

 

枡屋に滞在していた宮部鼎蔵でしたが、家宅捜査が行われている間は枡谷を離れていて、新選組による捕縛を免れました。

祇園祭の宵山を控えたこの夜、尊王攘夷派の志士たちは古高俊太郎の奪還について話し合うために集まることになります。

会合場所は、三条木屋町にある旅籠「池田屋」——宮部鼎蔵の最期の時が迫る中、午後八時に会合は始まったのでした。

今回は池田屋事件で無念に散った吉田松陰の盟友、宮部鼎蔵をご紹介します。

 

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生い立ちと略歴。


(宮部鼎蔵先生の像 管理人撮影)

1820年——現在の熊本県上益城郡御船町の医家に宮部鼎蔵が生まれたのは、城山の桜も満開の4月のことでした。

宮部家は肥後細川藩士の分家で、代々医家として地元の人たちから尊敬されていました。長男の宮部鼎蔵も、医者になるために9歳で熊本城下に出ると、14歳には蒼莨塾に入り医学を学びます。

蒼莨塾で宮部鼎蔵を教えた医者の富田大鳳は尊王攘夷の思想家でもあり、宮部鼎蔵は鮮烈な尊王攘夷の洗礼を受けることとなり、尊王攘夷思想に傾倒していきます。

 

天保の大飢饉等でとても貧しい生活を強いられますが、1837年に宮部鼎蔵は蒼莨塾を無事に卒業します。しかし、医者になることはなく17歳で叔父の宮部丈左衛門から山鹿流兵法を学ぶようになります。

21歳になると藩の兵学師範である村上傳四郎に師事するようになり、3年後には代見を務めるまでに成長します。そして、31歳という若さで藩の兵学師範に抜擢されます。

山鹿流兵学の学者の間では、宮部鼎蔵は知られた人物となるのです。

 

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吉田松陰との出会い。松陰渡米未遂事件にも関係して、帰藩。

(吉田松陰先生の像 提供:写真AC)

1851年1月、旧暦では年の瀬を迎えた頃、肥後の宮部鼎蔵をひとりの山鹿流兵学者が訪ねました。それが長州藩の山鹿流兵学者、吉田松陰でした。

長崎に遊学していた吉田松陰は、西洋砲術家の池辺啓太の紹介で、肥後の宮部鼎蔵に面会を申し込んだのです。

面会場所は宮部鼎蔵の自宅です。初対面の二人でしたが、10歳の年の差などものともしないほど意気投合します。

この時、宮部鼎蔵は30歳、吉田松陰は20歳でした。

宮部鼎蔵の家に泊まり込んだ吉田松陰は、2日間にわたって時世について語り合いました。こうして親交を深めた山鹿流兵学者の二人は、ともに山鹿流の祖である山鹿素行の子孫、山鹿素水に入門して山鹿流兵学を学びました。

 

1851年、藩命で江戸に赴いた宮部鼎蔵は、江戸に開かれていた佐久間象山の私塾「五月塾」で砲術や兵学の習得に励んでいた吉田松陰と再会します。

江戸で再会した二人は、水戸から会津、秋田、津軽を目指す東北旅行を計画します。目的は各所で著名な人物と会い、各藩の施設をはじめ、鉱山を見学し、外国船を見ることが目的でした。

 

しかし、出発目前に吉田松陰にトラブルが起きます。

長州藩に依頼していた通行手形の発行が間に合わなかったのです。

当時は藩外に出る場合には藩の許可が必要で、もしも勝手に藩外に出た場合は「脱藩」として場合によっては死罪になることもありました。ところが吉田松陰は、東北旅行の約束を守るためだけに、簡単に脱藩に踏み切ったのです。

東北旅行では水戸で会沢正志斎と面会したのをはじめ、諸国で志士たちと交遊し、会津では日新館を見学し、津軽では海峡を通行する外国船を見ました。東北各地の鉱山も見学しています。

 

■吉田松陰・渡米未遂事件

(ペリー提督来航記念碑 提供:写真AC)

1853年に黒船が来航したことで、外国艦隊に乗り込んで海外留学を決意した吉田松陰は、1854年にペリーの再来航に先駆けて密航を企てます。

下田密航を目前に、宮部鼎蔵は吉田松陰から密航計画を打ち明けられました。

最初、宮部鼎蔵は「時期尚早」と止めましたが、吉田松陰の並々ならぬ決意に打たれ、「皇神の、まことの道をかしこみて、思いつつゆけ、思いつつゆけ」という激励の一首とともに、自らの愛刀と熊本市にある藤崎八幡宮の神鏡を贈りました。

旗艦ポーハタン号に盗んだ小舟で接近し乗船を果たした吉田松陰でしたが、アメリカ側に渡航を拒否され小舟も流されたことで下田奉行所に自首し、伝馬町牢屋敷に投獄されました。

下田密航事件について事前に知っていた宮部鼎蔵も、幕府から連座で処分を受け、熊本に戻ることになりました。

 

江戸での会談を最後に、宮部鼎蔵と吉田松陰が会うことはありませんでした。

宮部鼎蔵は実弟が関与した水前寺乱闘事件で藩から連座処分を受け、兵法師範職を罷免されます。そのため故郷に戻ってからは後進の育成をしつつ、竹細工や煙草を持ち歩くための胴籃などを製作して生計を立てました。

吉田松陰も江戸伝馬町の牢獄に入ったのち、萩の岩倉獄に投獄され、翌年に出獄が許されましたが実家での幽閉を強いられます。

宮部鼎蔵も吉田松陰も行動を制限された生活を余儀なくされている中で、手紙のやり取りだけは盛んに続けました。

松下村塾を主宰するようになった吉田松陰は、塾生たちに「宮部鼎蔵は、僕の遠く及ぶところではない」とよく話したと言います。

 

1859年——故郷で宮部鼎蔵が細々とした暮らしを続けている頃、吉田松陰は安政の大獄で処刑されました。

盟友を失った宮部鼎蔵は、「肥後勤王党」を結成、尊王攘夷運動を開始します。党内では京都や薩摩藩への偵察に入ったり、公家や諸藩の志士との外交を受け持ち、肥後の藩論を「尊王攘夷」に転換すべく行動しました。

自らが打ち出した京都御親兵の構想が実現すると、宮部鼎蔵は3000人を率いる総監に就任します。

 

意を決して上京するも、池田屋事件で散る。

(池田屋跡 現在は居酒屋になっている。筆者撮影)

1864年6月5日——祇園祭の宵山を明日に控え、八坂神社からも程近いこの界隈も、どこか普段とは違った雰囲気があったのかもしれません。

午後8時、京都三条の旅籠「池田屋」の二階に宮部鼎蔵の姿がありました。

治安維持組織新選組に連行された、古高俊太郎救出について話し合うために、京都市中に潜伏する20人以上もの尊王攘夷派の志士たちが集まりました。

京都御親兵3000人を率いる総監になった宮部鼎蔵でしたが、八月十八日の政変で尊王攘夷派が京都を追われることになると、宮部鼎蔵は脱藩を決意して長州藩に落ち延びました。

 

長州入りした宮部鼎蔵は、七卿のひとり三条実美に仕え、尊王攘夷運動の金策を目的に京阪と四国を奔走しました。

一方、三条実美の依頼で、急遽宮部鼎蔵は北陸へ向かいます。

長州藩に好意的な因幡藩が、北陸の有力藩・加賀前田家へ長州冤罪の協力を依頼できるようセッティングしてくれたからです。その交渉役として北陸入りした宮部鼎蔵は、無事に役割を果たした後、洛中工作のためにその足で大阪から京都に入り、枡屋に潜伏していました。

枡屋の古高俊太郎が捕縛されたのは、宮部鼎蔵が京都に潜伏して間もなくのことでした。

 

会合が始まって2時間後——午後10時頃、「御用改め」に新選組が池田屋に踏み込みます。新選組の襲撃を受け、宮部鼎蔵はその場で自刃し、45歳の生涯を終えました。

池田屋事件では松下村塾の四天王に挙げられる吉田稔麿など、多くの尊王攘夷派の有力人物が命を落としましたが、その中でも宮部鼎蔵は「大物」とされていました。祇園祭のお囃子が聴こえる中、宮部鼎蔵は盟友のもとへ旅立ったのでした。

 

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