(提供:写真AC)

「奇を以って虚をつき、敵を制する兵」として、長州では武士だけでなく農民から商人、果ては力士までの有志が集まり、1863年6月、下関に奇兵隊が組織されました。

提案者は剃髪して東行と名乗り、藩からもらった十年の暇を読書三昧に費やしていたところを、わずか数ヶ月で呼び戻されてた高杉晋作でした。

長州藩外国船砲撃事件で、攘夷を決行した長州藩は、フランス軍艦に報復され、前田砲台を占領されたことで、実戦経験のない長州藩兵の脆弱さが浮き彫りになりました。

 

まさに師である吉田松陰の「草莽崛起」のすべての日本人が身分に関係なく、世の中のために立ち上がるべきという教えのとおり、高杉晋作は身分に関係なく、有志の者を広く募ることを藩主に提唱し、下関総奉行手元役として下関の防備を一任され、奇兵隊初代総督に就任しました。

江戸時代末期、封建制度のもとで、身分を問わない民兵組織が藩に正式に認められることは異例のことでした。

 

高杉晋作は「武器は和流、西洋流に関わらない」という趣旨の規定を打ち出し、奇兵隊では最新の西洋製の武器を導入し調練しました。

高杉晋作自身は、奇兵隊と長州藩の正規兵が衝突した教法寺事件の責任をとり、わずか3ヶ月で総督を罷免されてしまいますが、奇兵隊は第二次長州征討を皮切りに、戊辰戦争まで長州藩の主力軍として活躍しました。

総督を罷免された高杉晋作でしたが、奇兵隊からはとても信頼されていたようで、奇兵隊結成から4年後、肺結核を患った高杉晋作に奇兵隊から鯉が届けられたという記録もあり、奇兵隊隊士たちが次々に病床に見舞いに訪れたそうです。

高杉晋作の提唱で結成された奇兵隊のメンバーには、「明治の超大物」としてその名を残す偉人が多数いました。今回はとくに有名な4人を中心にご紹介したいと思います。

 

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奇兵隊に参加していた山県有朋。のちに第4代内閣総理大臣に。

(提供:パブリックドメインQ

松下村塾の塾生のひとりであった山県狂助―後の山県有朋は、長州藩士であるものの、足軽よりも身分が低い中間の生まれでした。

奇兵隊に参加した山県有朋は、幼少の頃より鍛錬を積んだ得意の槍術を隊士たちに教えるようになり、剣術・槍術の素人も多い中で重宝されていました。

次第に兵法など軍事面で頭角を現し、奇兵隊士たちの意見を取りまとめるまでになります。奇兵隊軍監を任じられた山県有朋は、高杉晋作が総監を罷免された後、軍監、後に総監として奇兵隊を率います。

 

第一次長州征討をきっかけに、長州藩の反論が幕府恭順に傾きます。高杉晋作が功山寺で挙兵した時は、奇兵隊を率いて応援、第2次長州征討でも高杉晋作と共闘し小倉城を攻略しました。

明治時代になるとヨーロッパ・アメリカを軍事視察し、帰国後に陸軍大輔に就任、徴兵制を制定しますが、汚職の責任を問われて辞任します。

しかし、政府内に陸軍大輔にふさわしい人材が見つからず、陸軍卿として復職し、軍制改革を断行していきます。

 

内務卿に就任、2度目のヨーロッパ視察の後、内閣総理大臣に就任すると教育勅語を発布します。さらに日清戦争では56歳で第一軍司令官として自ら戦場で指揮をとっています。

軍人として前線に立った内閣総理大臣は、山県有朋ただひとりです。

日本陸軍の基礎を築いた山形有朋は「日本軍閥の祖」と言われ、その生活ぶりも軍人らしく、規則正しく質素倹約そのものだったといわれています。

松下村塾の三秀のひとり吉田稔麿も参加。

(松下村塾 提供:写真AC)

松下村塾には吉田松陰が「三秀」と称した秀才がいました。
奇兵隊を創設した高杉晋作、久坂玄端、そして吉田稔麿でです。

足軽の家に生まれた吉田稔麿ですが、松下村塾の門を叩き、吉田松陰のもと兵学を極めました。その後、松下村塾三秀の高杉晋作、久坂玄端とともに、攘夷運動に奔走。高杉晋作が奇兵隊を設立すると、吉田稔麿も参加します。

京都の池田屋で行われていた尊攘志士たちの会合に参加していたところを治安維持組織新撰組に襲撃され、吉田稔麿は24歳で亡くなりました。

松下村塾でともに学んだ品川弥次郎は後年、吉田稔麿が生きていたら総理大臣になっていただろうと言うほど、将来が期待された人物でした。

 

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禁門の変で落命・入江句一の名前も。

(蛤御門 提供:写真AC)

足軽の家に生まれた入江句一は、入江家をひとりで養わなければならず、松下村塾への入塾が遅れながらも、入塾後は頭角を現し、高杉晋作、久坂玄端、吉田稔麿と並んで、松下村塾の四天王と称されるようになりました。

高杉晋作が奇兵隊について提言すると、入江句一は創設に協力します。
そして奇兵隊では参謀として活躍しますが、高杉晋作が総監を罷免されたと同時に、久坂玄端とともに尊王攘夷運動を展開するようになります。

八月十八日の政変で長州藩が京都を追い出されると、巻き返しのために京都に戻り、御所の近くで戦闘になります。

この禁門の変に久坂玄端とともに加わっていた入江句一は、天王山に布陣していましたが、敵の槍を受けて自刃しました。

訓練を指導したのは蘭学兵学者・大村益次郎。

(靖国神社 大村益次郎像 提供:写真AC)

大村益次郎は、後に大河ドラマの主人公になったほど、波乱万丈な人生を歩んだ人物ですが、彼もまた、奇兵隊メンバーのひとりでした。

長州藩の藩主毛利氏の領国である周防国で、大村益次郎は村医の長男として生まれました。1824年生まれ、奇兵隊を創設する高杉晋作より、15歳年上になります。

シーボルトの弟子、梅田幽斉から医学や蘭学を学び、その後大阪の適塾で緒方洪庵に学び、塾頭にまで上り詰めます。

26歳で周防国に戻り、開業して村医となります。決して愛想がいいわけでもなく、話し下手であったため、村医としての評判はあまりよくなかった大村益次郎でしたが、開業から2年後、蘭学の専門家として出仕してほしいという宇和島藩の要請に応じ、宇和島藩へ移り住みます。

 

■蘭学と軍事で傑出した才能を見せる。

宇和島藩で蘭学の講義をしたり、洋書の翻訳をこなしていた大村益次郎は、藩主の参勤に同行するほど重用されるようになります。

江戸でも蕃書調所という西洋学問を研究する機関での講義を任され、私塾も開いて教鞭を振るいました。口下手であった大村益次郎ですが、西洋のことをわかりやすく説明してくれるので、講義に関しては評判がよかったようです。

大村益次郎は桂小五郎からの推薦を受けた長州藩から要請を受け、長州藩士として出仕することになります。藩校で西洋兵学を教えるだけでなく、軍監製造のため製鉄所の建設に携わるなど、長州藩の軍事改革にも着手します。

 

さらに高杉晋作から要請を受け、新設の奇兵隊での訓練指導を担当するようになりました。

第二次長州征討では、高杉晋作が小倉口を攻略すると同時に、石州口で兵を率いていた大村益次郎は、幕府方の浜田城と石見銀山の制圧に成功します。

指揮をとった上野戦争では、僅か1日で寛永寺を陥落させています。

 

明治維新後は初代陸軍大輔となりますが、京都の旅館で教え子たちと会食中、刺客に襲われて重傷を負います。

御所のある京都には西洋人が立ち入ることができなかった為、大坂の病院まで運ばれ、蘭医ボードウィンによって手術を受けますが、敗血症のため2ヶ月後に亡くなりました。

 

大村益次郎は「国民皆兵」を掲げ、兵制の改革に着手しました。

日本に生まれた一人前の男子すべてが、国家の干城として一視同仁たるべしと、後の徴兵制の原案になる構想です。それはまさに草莽崛起、身分を問わず徴兵するというものでした。

「陸軍建設の祖」といわれる大村益次郎に、奇兵隊の存在は受け継がれていたのでした。

 

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