(提供:写真AC)

太平洋戦争開戦の大きな原因となったアメリカ政府から日本政府への要求が書かれた「ハルノート」。現代では最後通牒とも呼ばれていますが、アメリカがハルノートを出すまでに至る流れを紹介します。

 

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アメリカが対日石油禁輸をする。

(提供:写真AC)

日本は満州事変に続き日中戦争を起こして中国大陸へ勢力圏を広げる軍事行動を続けていました。昭和16年(1941年)7月23日に日本はフランス領インドシナの南部(南部仏印)に軍を進駐させて占領します。

この事件を受けて、アメリカは8月1日に対日石油輸出禁止を実行します。
当時の日本にとって、アメリカから石油を輸入できないのは、どれほど大変なのか?

昭和15年(1940年)、日本が輸入する石油の77%がアメリカから輸入したものでした。前年の昭和14年(1939年)では緊急輸入もあって90%にも達します。

つまり、石油のほとんどをアメリカに依存していたのが当時の日本なのです。
結局、昭和17年には石油の備蓄が尽きると言う危機的状況に陥ります。

ABCD対日包囲網。いよいよ追い詰められる。

(提供:写真AC)

アメリカ以外で石油を輸入できる所はありました。
それがオランダ領インドネシア(蘭印)です。

既に始まっていた第二次世界大戦でドイツに降伏したオランダでしたが、
オランダの植民地であるインドネシアには植民地政府があります。

日本は蘭印政府へ今までの50万トンの輸入から100万トンに増量して欲しいと交渉しました。しかし、オランダはイギリスと同盟を組んでドイツと戦争を戦っていました。

そのドイツとは前年の昭和15年(1940年)に同盟を組んだ日本。蘭印は日本の石油輸出増量の要求を受け入れたものの、南部仏印への日本軍進駐をきっかけに日本との協定を破棄します。

アメリカとオランダからの石油が止められ中国と戦争を続け、ドイツの同盟国として警戒するイギリス。この4ヶ国に囲まれ石油禁輸など経済封鎖を受ける状況に昭和16年の日本は追い込まれていました。

 

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首相の東条英機は戦争回避を模索。

(現在の外務省 提供:写真AC)

危機的な状況の日本。
政府や軍部はどうこの状況を乗り越えようとしたのでしょうか?

昭和15年から鉄屑や鋼鉄・工作機械の輸出停止などアメリカらからの経済的圧力を受けていました。そのため、日本の軍部はアメリカとの開戦は回避できないと考えていました。

対して、外務省や総理大臣の近衛文麿は外交交渉での解決を図ろうとしますが軍部の強硬さに流されてしまいます。結局、昭和16年10月16日に近衛内閣は総辞職してしまいます。

 

代わって総理に就任したのが近衛内閣で陸軍大臣をしていた東条英機でした。

東条英機には陸軍を抑えてアメリカと和平に向かう事が望まれていました。

天皇陛下からも「外交的和解に努力せよ」とのお言葉を頂き、外交による解決を第一に考えます。

 

東条内閣と軍部は日独伊三国同盟で日本は自動参戦しない、中国大陸から撤兵などを盛り込んだ「甲案」を出しますがアメリカとの交渉は進展しません。

東郷外務大臣は仏印からの撤兵に触れる乙案と言う譲歩案を強硬に押し通します。東条内閣は二つの譲歩案でアメリカとの交渉に望みを繋げたのです。

もしも、この譲歩案が通らなければ、軍部からの圧力によって開戦に踏み切る気運が強まります。すでに日本は絶体絶命の状況に陥っていました。

最後通牒?『ハルノート』が突きつけられる。

(提供:写真AC)

しかし、アメリカは日本が提出した2つの譲歩案で交渉をしようとしません。

実は、アメリカ側は、諜報活動によって日本政府とアメリカにある日本大使館の通信内容を知っていました。

「乙案」を最終案だと伝える外務省から日本大使館への通信を知ったアメリカ政府は、日本政府が開戦に向けて動いていると解釈してしまったのです。

 

11月26日にアメリカ政府のハル国務長官(日本で言う外務大臣)から日本政府への要求書が提出されます。それが「ハルノート」です。

内容は日米間の新たな経済関係作りが多いのですが、仏印と中国大陸からの全面撤退と言う日本の軍部が受け入れられない内容がありました。

日本の譲歩案が受け入れられず「ハルノート」を突き付けられたことに東郷や東条は外交での解決に失望します。12月1日にアメリカとの外交交渉が失敗したと判断して、日本政府と大本営はアメリカとの開戦を決定します。

 

■なぜ最後通牒と呼ばれるのか?

「ハルノート」が最後通牒と評価されるのは、軍部(特に陸軍)を全く説得できない内容だったからです。

また、石油備蓄もなく、アメリカと軍部を時間をかけて説得できないのも「ハルノート」を最後通牒と受け取ってしまう背景がありました。

内も外も余裕のない日本政府の苦しさが「ハルノート」を最後通牒と受け取って開戦へと踏み切らせたと考えるのが自然です。

 

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