(吉村寅太郎像 管理人撮影)

1862年3月6日、土佐藩史上初の不祥事が発生します。
脱藩者の第一号が出たのです。
関所の厳しいセキュリティーチェックを、薩摩への使者だと身分を偽り、武具一式を整えて馬に乗って堂々クリアした者がいたのです。

男の名前は吉村寅太郎。
この脱藩から一年半後、討幕のために天誅組を率いて蜂起する人物です。

現在の高知県高岡郡津野町の庄屋の長男として誕生した吉村寅太郎は、12歳で父の跡を継ぎ、庄屋としてキャリアを積んでいきました。

正義感の強い若者で、土佐藩の下役人に呼び捨てにされたことに憤り、大庄屋の連名で訴状を提出、これを理由に庄屋として転任を命じられていますが、転任先の檮原村の大庄屋では実績を残しました。

吉村寅太郎の運命を大きく変えたのは、武市半平太との出会いでした。
土佐城下の武市半平太のもとで剣術を学ぶうち、武市半平太の尊王攘夷思想に傾倒していったのです。

 

1861年、公武合体を藩論としていた土佐藩で、土佐藩における「挙藩勤皇」を成し遂げることを目的に武市半平太が土佐勤皇党を結成すると、道場の生徒であった吉田寅太郎も加盟しました。

土佐勤皇党に加盟した吉村寅太郎が脱藩を決意したのには、長州で知己を得た久坂玄端や筑前の平野国臣などの志士の存在があります。

武市半平太の手紙を届けるために長州を訪れた吉村寅太郎は、九州・筑前の平野国臣を訪問します。この出会いをきっかけに、吉村寅太郎は武市半平太が掲げる「挙藩勤皇」が現状では不可能だと考えるようになりました。

 

そして、土佐帰国後、脱藩を決意した吉村寅太路は、土佐藩脱藩一号となったのです。吉村寅太郎の脱藩を皮切りに、坂本龍馬をはじめ、宮地宜蔵などが次々と脱藩します。

しかし、脱藩から一ヶ月で、寺田屋事件への関与を疑われ、土佐藩に送還された後、八カ月にわたって禁固生活を余儀なくされました。

 

そして釈放後、吉村寅太郎は天誅組を組織します。

吉村貫太郎率いる天誅組の蜂起は、のちに「天誅組の変」と呼ばれているが、日本史では影の薄い事件であまり知られてはいません。

しかし、天誅組の変は、討幕の機運を高め、その後の尊王攘夷派の志士たちの活躍にも影響を及ぼしたという評価もあります。そこで今回は、天誅組結成の背景から、天誅組の変の顛末、後世の評価について解説していきます。

 

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そもそも天誅組とは?グループ結成の背景。

(靖国神社 神門(菊の御紋)提供:写真AC)

第14代将軍・徳川家茂は頭を抱えていました。
1863年、徳川家茂は、朝廷に攘夷決行を約束してしまったのです。

日本全国の尊王攘夷派の士気も高まります。
しかし、徳川家茂に攘夷決行の意思はなかったのです。

この頃、釈放されて京都へ戻った吉村寅太郎は、明治天皇の母方の叔父にあたる公家・中山忠光と出会いました。

権大納言の中山忠能の七人目の男児で、孝明天皇との間に明治天皇を産んだ中山慶子の同母弟にあたる、天皇家にとても近いポジションの公家でした。

 

生粋の公家でありながら、中山忠光は過激な尊王攘夷派でした。

尊王攘夷派の志士を牽引する久留米の真木保臣から中山忠光が知己を得るようになったのは、まだ十代の半ばの頃でした。吉村寅太郎は中山忠光を介して、多くの尊王攘夷派の志士たちと交流を持つようになったのです。

1863年、5月10日、攘夷決行を約束した当日、尊王攘夷の急先鋒であった長州藩が、冠毛海峡を通過する外国船に砲撃を開始、下関戦争が勃発します。

この時、中山忠光は密に官位を返上すると長州入りを果たし、公家装束の上から甲冑を着込んで自ら砲撃に加わっています。

 

8月13日になると、朝廷から孝明天皇の大和行幸が発表されました。
真木保臣が画策し、攘夷派の公家たちが根回しを行ったものです。

この大和行幸の目的は、孝明天皇が大和(奈良)にある神武天皇陵を参拝して、天皇自らが攘夷戦争を実行する「攘夷親征」を誓うことにありました。

この計画に先立ち、攘夷先鋒として武装して大和に乗り込むことを考えた吉村寅太郎は、中山忠光を主将に迎えて大和入りを果たすために天誅組を結成するのでした。

 

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天誅組の変が起きるも、幕府軍に鎮圧される。

(五条代官所 管理人撮影)

天誅組は神武天皇陵での攘夷親征の誓いを目的とした大和行幸に先立ち、1863年8月14日に京都を出立しました。

大和入りした天誅組は、8月17日に大和国五条代官所を襲撃して、代官・鈴木源内をはじめ5人を殺害し、代官所を焼き払いました。

翌日、桜井寺に本陣を置き、五条代官所が支配していた土地を天皇直轄の領地とする「天朝直轄地」として、この年の年貢を半減することを宣言、桜井寺の本陣を「御政府」、「総裁所」と呼びました。

18日、五条を「天朝直轄地」と称して、この年の年貢を半減することを宣言した後、自分達を「御政府」または「総裁所」と称します。

 

■八月十八日の政変が起きる!

(蛤御門 提供:写真AC)

8月18日、天誅組のクーデター当日、幕末史における重要事件が発生しました。八月十八日の政変です。

公武合体派の公家と薩摩藩・会津藩が協力して、当時朝廷で力を持っていた長州藩を一掃するクーデターを起こしたのです。八月十八日の政変によって、天誅組は朝廷での後ろ盾を失ってしまいました。

神武天皇陵での攘夷親征の誓いのために大和行幸を行うことになっていた孝明天皇も、外国人嫌いで攘夷論者ではありましたが、過激さを増す長州藩を中心とした攘夷派には反対的で、大和行幸も延期を申し出ていました。

八月十八日の政変の勃発に加え、当初の目的であった孝明天皇の大和行幸が延期になったため、天誅組は当初の目的を果たすことができなくなたばかりか、幕府が討伐に乗り出し、厳しい状況に立たされます。

 

■幕府による鎮圧。

(高取城の天守閣の穴蔵 提供:写真AC)

幕府の討伐部隊に対抗するため、天誅組は十津川郷へ逃れました。

現在の奈良県十津川村にあたる十津川郷は、古来から朝廷に仕えていて、壬申の乱、平治の乱にも出兵し戦功を挙げて、江戸時代には天領として免租され、住民は郷士の身分を与えられました。

 

このような歴史的背景から、十津川郷は勤皇の集落でした。

十津川郷へ逃れた天誅組は、十津川郷で1000人の兵を集め、さらに高取藩に兵糧の差し出しを要求しましたが断固拒否されたことを理由に、26日に高取城を攻撃します。

しかし、十津川郷士たちは、装備も遅れていたばかりか、実戦経験もなく、すぐに戦況は不利なものになります。さらに朝廷が「天誅組は朝廷軍ではない」と正式見解を出したため、十津川郷士たちは離脱します。

吉村寅太郎は24人の決死隊を組織して夜襲を仕掛けますが、高取藩の斥候と遭遇、吉村寅太郎は高取藩兵に斬りかかりますが、下腹部に銃撃を受けてしまいます。この銃弾は、味方が誤って撃ったものでした。重傷を負った吉村寅太郎率いる決死隊は、ここで撤退を余儀なくされたのです。

 

高取城の戦いで大敗した天誅組は、吉野郡鷲家口へと後退。9月を迎えると、朝廷から中山忠光に対し逆賊の詔が発せられ、天誅組は壊滅状態となります。

吉村寅太郎の居場所が発見されたのは9月27日のこと、幕府から派遣された紀州、彦根、津藩の兵に見つかり、激しい銃撃を受け自刃を決意しました。

この時、吉村寅太郎は歩行が困難な状態でした。

しかし、主将である中山忠光を逃すことに成功しています。中山忠光が逃げたのを見届けてから、吉村寅太郎は27歳で自ら命を絶ちました。

吉村寅太郎の自刃、中山忠光の逃亡、他の天誅組のメンバーもそれぞれ討ち死にしたり、捕縛されたりなどして天誅組は壊滅しました。

「討幕の機運を高めた」と言う評価もある。

(天誅義士記念碑 管理人撮影)

天誅組が討伐され、実質天誅組を率いていた吉村寅太郎が自刃したことを聞いた長州藩士・高杉晋作は「私の知り合いは世に数多くいるが、私の心を知るものは吉村虎太郎と河上弥市のみだ」とその死を悼み、後に功山寺で挙兵。

長州藩の藩論を倒幕に統一、維新に大きく貢献しました。

高杉晋作にも大きな影響を与えた天誅組の変は、幕末史上初めて「倒幕」を日本全国に知らしめ、明治維新のきっかけになったとも言われています。

それは明治時代になっても、吉野の地元の人たちによって手厚く葬られた天誅組隊士たちの墓所へ参拝する人が絶えなかったというエピソードがよく物語っているのではないでしょうか。

 

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