(提供:パブリックドメインQ

「困っている民衆は見過ごせない!」時代劇のヒーローは悪と戦うものですが、それを地でいったのが大塩平八郎でした。彼が目の当たりにした天保の大飢饉。正義に燃え、決起して、そして果たせぬまま散った男の物語です。

 

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天保の大飢饉で餓死者続出!どれぐらいの惨状だったのか?

(提供:写真AC

1830年代の天保時代、天候不良で凶作がつづき、全国で餓死者が増大していました。被害の大きかった東北では米がとれず、農村はどこも壊滅状態。

米不足は都市部にも打撃を与え、当時、人口が百数十万人だった江戸でも、救済者が70万人もいたといいますから、民衆、特に貧困層は生きるか死ぬかの大飢饉だったのです。

天下の台所・大坂(今の大阪)でも一日200人のペースで餓死が続出。各地で百姓一揆が起きるなど、日本中が地獄のような有様でした。

希少な米の値段は上がる一方。それなのに幕府はろくな対策もとらず、逆に全国から米を送らせて御城府だけでも守ろうとする始末。まさに救いのない時代だったのです。

大塩平八郎の乱が勃発。しかし、半日で鎮圧。

(提供:写真AC)

さて、大坂町奉行のOBで大塩平八郎という人がいました。大坂の惨状を嘆き、自分の5万冊もの蔵書を売って、貧民の救済を始めます。

これが当時の大坂町奉行・跡部良弼から「スタンドプレーかよ」と睨まれてしまうのです。この跡部はあの水野忠邦の弟で、大坂の米を江戸に送っていた張本人です。

 

大塩もさすがに我慢の限界となり、跡部に米を流す豪商に天誅を下さねばと考えます。大塩は「善を成し悪を去るは格物」と教える陽明学の先生ですから、そこまで考えちゃったのかもしれません。自分の門下生と近隣の農民に檄文を飛ばし、家族と縁まで切って武装蜂起の準備を整えました。

ところが決行直前に密告され、やむなく大塩は自宅を放火して、ほとんどやけで決起。集めた300人で「救民」の旗を掲げ、大砲と火矢をぶっ放し、大坂の5分の1を焼いたものの、半日で鎮圧されてしまいます。

大塩は逃亡し、江戸へ建議書も送るのですが、それは大阪奉行が裏で手を回し握りつぶされます。40日余り潜伏していましたが、見つかって包囲され、大塩は爆死で自決したのです。時代劇のように「めでたしめでたし」とはなれなかった大塩平八郎の乱は、その後呪いのように幕府を苦しめることとなります。

 

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幕府にどのような影響を与えたのか?

(提供:写真AC)

失敗したとはいえ、大塩のような元役人が、重要直轄地である大坂で反乱を起こしたことは幕府にとって衝撃的なことでした。これほどの内乱は、島原の乱以来200年なかったことです。

大塩の檄文は民衆の手で、全国で筆写されました。越後の生田万の乱もその影響を受けています。その後全国で小さな乱が頻発。その度に「大塩の乱の残党が起こした」と噂になりました。アメリカのモリソン号が日本沿岸に侵入したときも、「大塩と異人が江戸を攻めにきた」と囁かれたそうです。

爆死した大塩の遺体は本人確認ができず、大塩平八郎生存説がまことしやかに民衆の間で囁かれていました。これらは、大塩が「民のために立ち上がったヒーロー」と全国的に信奉されていた証左でしょう。幕府への不満が燻っていた国民に、大塩が投げかけた火の粉は小さいものではなかったのです。

 

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