(提供:写真AC)

豊臣五奉行で土木事業を受け持った増田長盛。豊臣政権を支えた優秀な人物でありながら、一部では「豊臣家を滅ぼした元凶」とまで呼ばれています。関ケ原で西軍が負けたのは長盛の保身が原因だったとされているのです。

 

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信長家臣時代の秀吉に仕える。中国平定、小牧・長久手の戦いなどに従軍。

(提供:写真AC)

長盛の生地には尾張と近江、2つの説があります。長盛28歳のとき、まだ信長に仕えていた羽柴の頃の秀吉の配下となります。

中国征伐にも同行し、鳥取城攻めでは陣中の物商奉行となり、事務的な人なのかなと思えば、上杉景勝との外交で交渉力を発揮していますし、小牧・長久手の戦いでは先陣で敵の兜首を二つ取る武芸も持ち合わせていたようです。

さらに、紀州を大谷吉継と一緒に攻撃して武功を挙げ、小田原攻めでは関東の大名たちと秀吉の間を取り次ぐなど、各方面で活躍していたのです。

太閤検地の中心人物のひとり。

(提供:写真AC)

秀吉が行った主な政策の一つ、太閤検地でも長盛は石田三成、長束正家らと中心的な仕事をしました。近江、美濃、越後といった主要地は、この長盛が責任者となって測量などがされたのです。

元々地理土木系が好きな性質だったようで、普請事業にも積極的に取り組んでいます。京都では伏見城の改修、三条大橋と五条大橋の改修作業に取り組み、三条大橋では今も長盛の名が刻まれています。

文禄の役では現ソウルに駐屯して統治、兵站に従事し、秀吉が嫡男の秀頼が誕生したことで養子の秀次を自害に追い込んだときも、秀吉を擁護する側に回るという忠臣ぶりを見せました。でも、秀吉の死で潮目が変わってきます。

 

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関ヶ原の戦いは不参加。家康と内通していた?

(関ヶ原古戦場 提供:写真AC)

石田三成が反徳川家康を表明すると、長盛もこれに呼応します。西国大名たちに味方になるよう要請する文書を送り、長盛はさすが秀吉の忠臣という活動を精力的に行いました。得意の交渉で各地の城を落とすのに力を尽くし、バリバリの西軍という働きをしています。

ところが、「三成は人望ないし、負けたら大損やなぁ」という思いもあったのでしょうか。家康にも三成の挙兵をこっそり伝えたり、三成からの資金要請も拒否しています。

関ケ原の戦いの当日も参加せず、大坂城の防衛なんかやっていました。その大坂城の情報まで家康に伝えていたといいますから、二枚舌もいいところです。

西軍は負け、長盛は家康に謝罪して許されました。長盛は豊臣家の100万石の資金と人材を管理しており、これらを西軍のために動かしていたら結果は逆になっていただろうといわれています。「豊臣家を滅ぼした元凶」と指弾されるのも当然です。

大坂夏の陣で息子が不祥事を起こす。長盛、連座して、自害を命じられる。

(大阪城 提供:写真AC)

長盛は高野山に置かれ、後に岩槻城主・高力清長に預けられます。家康からまだ秀頼が君臨していた大坂城との和睦仲介を頼まれると、「どうせ大坂城のことをスパイしてこいってことだろ。そんなことはできない」と断ります。

どうも立ち位置がはっきりしない人です。

そして、大坂夏の陣。そのとき尾張の徳川義直配下だった長盛の子・盛次は、長盛と相談して、義直からも許しをもらい、大坂城に入って豊臣軍に合流するという事件が起こります。夏の陣では秀頼も死に、長盛も息子の不祥事の連座で自害を命じられます。

一説には「秀頼様がいない世で生きていても望みがない」と自害したともいわれます。その気持ちで三成に協力していれば、歴史は大きく変わっていたかもしれないんですが……。

 

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