(堀田正睦公像 提供:写真AC)

成田国際空港には国際便の飛行機が離着陸を繰り返します。
国際線ターミナルには、様々な国から日本を訪れた開国人が行き交い、いくつもの言語が飛び交っています。

200年前、この成田国際空港の程近くを藩領とした佐倉藩、その5代目藩主・堀田正睦は開国と攘夷の間で揺れる幕末に、明確な開国ヴィジョンを持って老中首座となった人物でした。

「国運を振張するの道は開国にあり、国力を増強するの策は通商にあり」

日本を開国し、通商条約を結んで交易を始めることこそ、この局面を乗り切る唯一の手段であると、アメリカとの通商条約締結に奔走します。

前任は日米和親条約を締結し、安政の改革を行った阿部正弘、後に政治の実権を握ったのは安政の大獄を慣行した井伊直弼でした。

 

堀田正睦は老中首座に任じられるも、実権は阿部正弘に握られ、阿部正弘の死後、日米通商条約締結に向けて奔走している間に大老となった井伊直弼に罷免された無能な老中――

現在ではそのように認識されていますが、一方で地元の千葉県では、堀田正睦像が建てられるほど、藩政改革が高く評価されています。

当世きっての開国派、堀田正睦。
果たして、本当に無能な老中だったのでしょうか?
今回は開国を決断した彗眼を持った、第五代目佐倉藩主・堀田正睦をご紹介します。

 

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生い立ちと経歴。

(佐倉城跡 提供:写真AC)

佐倉藩を治める堀田家は、徳川綱吉の時代に大老として平和の治と言われる一時代を築いた堀田正俊を筆頭に、江戸時代を通じて多くの老中を輩出した譜代の名門です。

1810年、堀田家が輩出する最後の老中となる、堀田正睦が佐倉藩の江戸邸で誕生します。佐倉藩第3代藩主・堀田正時の次男として生まれましたが、堀田正睦が生まれた翌年に病死したため、藩主となった嫡系の堀田正愛の養子となります。

丈夫な身体に恵まれた堀田正睦は、渋谷の広尾にあった下屋敷で、母や姉に見守られ、すくすくと成長していきます。堀田正睦は小鳥が大好きで、小さい頃からよく餌をやっていたといいます。外に出て自然の中で遊ぶ、活発な子供時代を送りました。

 

■佐倉藩で天保の改革を実施する。

(提供:写真AC)

1825年、堀田正愛が病死したため、15歳で佐倉藩主となった堀田正睦ですが、当初実権は堀田正睦が藩主になることに反対していた金井右膳が握っていました。

1829年には幕府の奏者番となり、幕府官僚としての道を歩みだします。

幕僚として順調に出世を重ねる一方、佐倉藩では実権を握っていた金井右膳が死去したため、いよいよ堀田正睦の主導で佐倉は三大改革のひとつと言われる天保の改革に乗り出します。

堀田正睦は農村改革を実施します。
当時、佐倉藩では農村人口が著しく低下している問題を抱えていました。

堀田正睦は子育てを奨励、間引の禁止で農村の人口回復を図りました。さらに飢饉や災害に備え、村々に米などを備蓄するための貯蔵庫を建造、勧農掛設置を設置しました。

 

■教育政策を実施する。

(順天堂 提供:写真AC)

また特筆すべきは、堀田正睦が行った教育政策です。
藩校「温故堂」を拡充して、新たに成徳書院を設置、儒学・書学・数学・武芸など広く学問を奨励しますが、とりわけ蘭学を学ぶことを勧めました。

蘭法医である佐藤泰然を招いて、医学部と附属病院をかねた順天堂を開きます。この佐倉藩の順天堂は、後に順天堂大学になりました。

開明的な堀田正睦の政策は、度々「蘭癖」と言われることもありましたが、「西の長崎、東の佐倉」と称されるほど、佐倉藩は関東における蘭学の拠点となりました。

 

逼迫していた佐倉藩の財政の立て直しにも成功した堀田正睦は、1837年には大阪城代、1841年には本丸老中に就任、出世コースを駆け上ります。

老中となった堀田正睦は水野忠邦の天保の改革をサポートする立場になりますが、堀田正睦は早い段階から天保の改革が失敗することを予見していました。

そのため、水野忠邦が罷免される前に老中を病気を理由に辞任し、連座で失脚することを避けました。1843年に老中を辞任した後、堀田正睦は国元の佐倉藩に戻り、再び藩政改革に尽力し、大きな成果を出します。

 

12年後、1855年に安政の大地震が発生します。

佐倉藩の江戸上屋敷に滞在していた堀田正睦も負傷しますが、その1週間後に当時の老中首座であった阿部正弘に推挙され老中に再任され、後に阿部正弘から老中首座を譲られました。

しかし、その実権は阿部正弘が握っていました。翌年、堀田正弘が死去したことで、老中首座の堀田正睦が幕政を主導していくことになります。

「国運を振張するの道は開国にあり、国力を増強するの策は通商にあり」の信念のもと、堀田正睦はアメリカとの通商条約締結に向け動き始めますが、目の前にはいくつもの壁がそびえていたのでした。

 

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ペリー来航時の堀田正睦の活躍。

(ペリー提督の像 提供:写真AC)

1853年6月、日本の歴史を大きく揺るがすことになる、4隻からなる黒船艦隊が浦賀沖に来航した時、老中を辞任して以来、堀田正睦は佐倉藩の藩政改革に取り組んでいました。

ペリーの来航を知ると、すぐさま「外国交易許可10年後の交易評価」を取りまとめ、2か月後に建白します。

さらに、1854年2月、江戸城内にて徳川斉昭らと米国処置について議論を交わした記録があり、1か月後には日米和親条約が締結されています。

攘夷派の代表格である徳川斉昭とも米国処置について議論したことは、ひとえに堀田正睦の海外情勢の詳しさにあったものだと考えられます。

幕閣に列してはいませんでしたが、佐倉藩主・堀田正睦の言動は、間違いなく日米和親条約締結に結び付いていたのです。

日米修好通商条約・調印の裏側。堀田正睦、ハリスとの交渉。

(提供:写真AC)

1857年10月、アメリカの駐日総領事・ハリスが、幕府に対して日米修好通商条約の調印を求めて来ました。

日本の開国通商を信念としていた堀田正睦は、ハリスからアメリカ大統領の国書を受け取り、早々に条約締結に向けての話し合いに入りたいところでした。

しかし、閣議に多くの反対派を抱えていて思うように進ませることができず、ハリスからの求めに応じることができずにいました。

幕府海防参与の職にあった水戸徳川家の徳川斉昭が辞表するという騒動を経て、堀田正睦は閣議を統一することに成功、幕府としてハリスに江戸城出府の許可を下し、アメリカ大統領の国書が奉呈されました。

 

12月になり、堀田正睦がハリスと直接面会し、日米通商修好条約調印へ向けた交渉へ入ることを宣言、これまで交渉にあたってきた井上清直に加え、目付の岩瀬忠震に全権を託し、具体的な話し合いが始まりました。

ハリスと14回にもわたった交渉内容は、おもに以下の通りです。

  • 「通貨に関する規定」
  • 「領事裁判権」
  • 「関税自主権」
  • 「開港・開市場」
  • 「輸出入品価格決定権」

教科書などでは、一方的に日本サイドがアメリカの提示する条件を丸呑みしているように書かれていますが、実際はひとつひとつの内容についてハリスが辟易するほど粘り強い交渉を行ていたのです。

在日アメリカ人が犯罪を行っても、日本の法律で裁くことができない領事裁判権、日本側が輸出入品の関税率の決定権を持たない関税自主権の欠如など、日本側に不利益な点も多くあったことは事実ですが、輸出入品価格決定権では日本側が勝利をおさめました。

日米修好通商条約を締結するために、政府内の調整を行い、ハリスとも交渉を行った堀田正睦でしたが、条約をスムーズに締結させるために、天皇の勅許をもらう奇策に打って出ますが、孝明天皇を筆頭に朝廷から激しい反対にあい、勅許を得ることはできませんでした。

さらに、この時すでに井伊直弼が大老に任じられており、実際の日米修好通商条約調印は天皇の許可なしに井伊直弼が行ったのです。

晩年の堀田。報復人事で佐倉城で蟄居。

(佐倉城 提供:写真AC)

大老・井伊直弼が勅許を得ずに条約を調印した責任を負わされ、堀田正睦は罷免され、政治生命を絶たれてしまいました。井伊直弼の大老就任には、将軍継嗣問題が関係していました。

紀伊徳川家の徳川慶福を将軍に推した南紀派の中心人物であった井伊直弼は政治工作を行い、水戸徳川家の慶喜を将軍に推す一橋派をリードして徳川喜福を時期将軍に擁立することに成功したからです。

 

老中首座だった堀田正睦は南紀派に属していましたが、朝廷からの勅許を得るために、一橋派を支持するようになっていました。

そのため、堀田正睦の罷免は条約を断行した責任者としてだけではなく、井伊直弼の一橋派の粛清という側面もあったのです。

もっとも、堀田正睦と井伊直弼は、一説には青年時代から仲が良く、将軍継嗣問題をきっかけに対立してしまいましたが、井伊直弼は時機を見て、堀田正睦を再登用するつもりだったとも言われます。

 

実際、安政の大獄で一橋派が次々に厳しい処分を下される中、堀田正睦は不問とされています。しかしそれも、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されてしまったことで、真相はやぶの中へ葬られてしまったのです。

佐倉藩に戻った堀田正睦は、大老・井伊直弼の命令に従い、4男の正倫に家督を譲り隠居しました。桜田門外の変が起こると、安政の大獄に対する報復人事として、朝廷と幕府の両方から佐倉城での蟄居処分を言い渡されました。

佐倉城で蟄居生活を送った堀田正睦は1864年に亡くなりました。

日本の未来を思い、開国通商を推し進めた堀田正睦の多くの業績が残る佐倉の土地からは、世界へ飛び立っていく飛行機が見えています。

 

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