(提供:写真AC)

坂本龍馬を題材にしたドラマや映画、小説やコミックでは、ストーリーもいよいよ後半戦、薩長同盟の締結後に、お約束のシーンに突入します。

坂本龍馬の恋人「お龍」が、入浴中に屋敷が捕り方に囲まれていることに気付き、あわてて階段を駆け上がり、龍馬に知らせに行く……という、このシーンです。

有名なこのエピソード、1度は何かの作品で見たことがあるのではないでしょうか。この寺田屋事件の一件で、坂本龍馬とお龍の距離はぐっと縮まり、ついに結婚します。

さて、今回は坂本龍馬の妻・お龍にスポットをあて、人物像、龍馬との出会い、そして彼女の幕末での活躍について解説します。

 

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お龍さんの人物像。本名・楢崎 龍(ならさき りょう)の素顔とは?

 

「お龍さん」と、当時の人たちは、坂本龍馬の妻を呼んだかもしれません。
そんなお龍さんの本名は「楢崎 龍」(ならさき りょう)と言います。

彼女の素顔を、夫である坂本龍馬が1番よく知っていたに違いません。

そんな坂本龍馬が、土佐の姉・乙女に宛てた手紙には、お龍について触れた手紙が多く残されています。今回は坂本龍馬の手紙を交えながら、楢崎龍の人物像・素顔を探りたいと思います。

 

■お龍さんの経歴

1841年、楢崎龍は京都の町医者の家に生まれます。
楢崎家はもとは長州藩士。父親は朝廷にも仕えた名医で、家はとても裕福でした。「花を活け、香をきき、茶の湯をしたりして暮らしていた」と、坂本龍馬も手紙に書いています。

しかし龍が20歳の時のことです。医者の父が亡くなります。龍は母と妹、弟を養うため、しばらくは家屋敷をはじめ、家財道具、自分の着物などを売って生活費を工面しましたが、やがて資産も底をつき、お龍は神奈川宿の旅館に奉公に出ます。

その頃、楢崎家で事件が起こります。16歳の妹が、騙されて大阪へ遊女として売られてしまったのです。お龍はどうにか金を用意し、すぐに大阪へ向かいました。この時のエピソードも、坂本龍馬の手紙に書かれています。

「死ぬる覚悟で刃物を懐にし……喧嘩をして」妹を取り返したのです。
腕に彫り物が入った男の顔を、殴り飛ばしたというのです。
坂本龍馬はこのことを「珍しきことなり」と述べています。

 

また、手紙では「今言った女は誠に面白い女で、月琴を弾きます」とあります。月琴は江戸時代に長崎に渡来した中国人が弾いていた中国の楽器です。この頃には、長崎の町人文化として定着していたといいます。

長崎にいた坂本龍馬が購入しお龍へ贈ったとも、坂本龍馬と共に長崎を訪れた龍が習ったという話もあります。龍は月琴がとても上手だったと言われています。

そして「私(坂本龍馬)に似ている」とも、坂本龍馬は龍を評しています。
確かに、お龍の行動力は、坂本龍馬に通じるものがあるかもしれません。

1866年3月、龍は坂本龍馬と結婚します。
結婚後、坂本龍馬が姉へ送った手紙を見てみましょう。

「誠に変わった女ですが、私の言うことをよく聞いてくれますし、また敵を見ても抜き身の刀を怖がることを知らないという女ですが、別に偉そうにはしませんし、まったく普段と変わったこともありません。これは面白いことです」

このように龍について書いています。

龍馬との出会いと恋物語。

お龍と坂本龍馬、後に夫婦となる2人の出会いと恋物語を紐解きます。

初めて会った坂本龍馬は、お龍に名前を聞きました。
お龍は紙に「龍」と自分の名前を書きます。
すると龍馬は「自分と一緒だ」と笑ったといいます。

お龍の父は朝廷にも仕えた名医で、京都で町医者として働いていました。この楢崎将作は尊王の志士の「支援者」でもありました。楢崎家は元長州藩士でした。楢崎将作は若い志士が頼ってくると、金品を与え、さらに自宅に匿っていました。

楢崎家には「食客」として、いつも志士が数人居候していたといいます。

1858年の安政の大獄では六角獄舎に収容されましたが、ほどなく釈放されます。
しかし1862年に病気で亡くなります。

お龍は七条新地の「扇岩」という旅籠に奉公に出ます。
お龍の母と妹も、河原屋五兵衛の隠居所に住み込みで働くことになりました。

この河原屋五兵衛の隠居所、実は土佐の脱藩浪士の隠れ家でした。
坂本龍馬もここに身を寄せていました。

お龍は母と妹に会いに、度々この河原屋五兵衛の隠居所を訪ねます。
お龍と坂本龍馬は、1864年頃、ここで出会ったと考えられています。

坂本龍馬はお龍を妻にしたいと、お龍の母に申し入れ、承諾ももらっていたそうです。

 

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1864年6月、池田屋事件が起きます。

旅籠池田屋に長州藩、土佐藩をはじめとした志士が集まっているところを、新撰組が襲撃した事件です。池田屋事件をきっかけに、河原屋五兵衛の隠居所にも捜査が入りました。

危険を感じた坂本龍馬は、お龍の家族を寺(尼寺)や勝海舟のもとへ逃します。お龍は坂本龍馬が使っていた伏見の旅籠「寺田屋」に預けられます。

 

薩長同盟の実現に向け、坂本龍馬は方々を飛び回ります。京都に滞在する時は、寺田屋に宿泊し、お龍と過ごしたといいます。

1866年1月23日、寺田屋が捕り物に襲撃されます。いわゆる寺田屋遭難(事件)です。お龍の機転により、坂本龍馬は左手の親指を負傷しながらも寺田屋を脱出し、その後薩摩藩に保護されます。

 

この寺田屋遭難の後、坂本龍馬は周囲にお龍を「妻」として紹介するようになります。そして3月、お龍と龍馬は祝言をあげました。仲人は西郷隆盛(一説には中岡慎太郎)と言われています。

お龍は24歳、龍馬は30歳でした。
お国はどこですか?国もとを離れ……などという言葉に残るように、この頃「藩」はひとつの国でした。他国の人間と結婚することは、当時ではとても珍しいことだったようです。

寺田屋遭難で機転を利かせて龍馬の命を救う。

(提供:写真AC)

1866年1月21日、薩長同盟が結ばれました。

薩長同盟実現の背景には、坂本龍馬が亀山社中を通し、薩摩藩名義で武器と軍艦を入手し、長州藩は薩摩藩のために兵糧米を用意するという、坂本龍馬の働きがありました。

その2日後の1月23日に事件は起こりました。

坂本龍馬は寺田屋の2階の部屋に泊まっていました。この時、長州藩から龍馬の護衛を任されていた三吉慎蔵も共に滞在していました。

坂本龍馬と三吉慎蔵は薩長同盟締結の祝杯をあげ、午前3時になり寝る支度を整え始めます。

この時、お龍は1階の浴室で入浴中でした。

お龍は異変を感じ、戸の隙間から外の様子を伺いました。寺田屋は幕府の捕り物に囲まれていました。

お龍はすぐさま浴室を出ると、着物も身につけず、寺田屋の裏階段を上り、龍馬に事態を知らせに行きました。

 

さらに、お龍は寺田屋から近い薩摩藩邸に走り助けを求めました。

一方、龍馬は高杉晋作から贈られたピストルを、槍の達人の三吉は槍を構え、捕り方の襲撃に備えました。

捕り方が部屋へ上がり込んで来ます。龍馬はピストルを数発発砲します。捕り方がピストルに怯んだ隙に、2人は屋根伝いに寺田屋を脱出しました。この時、龍馬は左の指を負傷してしまいます。

 

龍馬と三吉は、寺田屋に程近い木材屋に身を隠しますが、役人から逃れられないと思った三吉は、その場で切腹しようとします。龍馬は三吉の切腹を阻止し、薩摩藩邸へ行くように言い聞かせました。

龍馬は指の傷のため、その場を動けなかったのです。
その後、龍馬はすぐに駆けつけた薩摩藩士に助け出されました。

お龍がすぐさま龍馬に寺田屋が捕り方に囲まれていることを知らせに行き、その足で薩摩藩邸へ救援を求めに行かなければ……。

龍馬がピストルを準備する余裕も、薩摩藩士たちが救援に向かうこともなく、近江屋事件よりも2年も早くに命を落としていたかもしれません。

日本初の新婚旅行!二人で鹿児島の温泉巡り。

(坂本龍馬とお龍の新婚旅行像 :提供写真AC)

寺田屋遭難で負った左親指の傷は相当深く、動脈にまで達していたらしく、その後は動かしにくくなってしまったと、坂本龍馬は姉の乙女に手紙で知らせています。

京都の薩摩藩邸に坂本龍馬を保護していた西郷隆盛は、龍馬の傷を見かねて、鹿児島の霧島へ湯治へ行くことを勧めます。

こうして、坂本龍馬とお龍夫妻は、日本初の新婚旅行に出かけることになりました。薩摩藩船「三邦丸」で大坂を発ち、鹿児島・天保山に到着、そこからさらに船で浜之市港へ向かい、霧島を目指しました。

霧島山麗の塩浸温泉で湯治をしながら、魚釣りをし、さらにピストルを撃ったりなど、2人は楽しく過ごしました。

 

霧島山の頂に日本神話に登場する「天のさかほこ」というものがあり、霧島滞在中、龍馬とお龍は天のさかほこを見ようと高千穂峰に登山します。なかなかハードな登山だったようで、龍馬の手紙には「泣きそうになる」と書かれているほどです。

苦労して高千穂峰の頂に辿り付き、2人は一面に咲き誇るミヤマキリシマツツに感動し、天のさかほこの側面に彫ってある天狗の顔を見ては、『思いもかけぬおかしな顔つきの天狗の面である』と笑ったといいます。

そして、龍馬はこの天のさかほこを、引き抜いてしまいました。この時、お龍も見ているどころか、龍馬を手伝ったと言われています。

薩摩藩士小松帯刀の別邸に滞在した50日間も含め、龍馬とお龍は80日間の新婚旅行を満喫しました。

龍馬の死後に再婚を果たす。どのような生活をしていたのか?

近江屋事件でお龍は最愛の夫を亡くし、3年ばかりの結婚生活が終わります。
坂本龍馬の未亡人となったお龍の、その後の人生を見てみましょう。

お龍は妹(三女)と海援隊士千屋寅之助の婚礼をすませてから(義理の妹と千屋の結婚は龍馬の意志だったといいます)、寺田屋遭難の時にも一緒だった三吉慎蔵に面倒を見てもらい、その後土佐の坂本家へ送られます。

坂本龍馬の姉・乙女をはじめ、坂本家はお龍を暖かく向かい入れたと言います。しかし、家事をせず、日がな月琴を弾き、ピストル撃ちに興じるお龍は、嫁としての自覚が足りなかったのかもしれません。2ヶ月あまりで坂本家から離別を宣言されました。

 

京都へ戻ったお龍は、近江屋の前で泣いたと言います。
生活に困ったお龍は、やがて西郷隆盛や海援隊士を頼りに、東京へ出ます。
しかし西郷隆盛は鹿児島へ戻っていました。

海援隊士の世話になったこともあるようです。
後に、東京から横須賀へ流れたお龍は、商人の西村松兵衛と再婚します。
幼馴染とも、もともと寺田屋の宿泊客で顔見知りだったとも、横須賀で出会ったとも、お龍と西村松兵衛の出会いには諸説あります。

 

しかし、西村松兵衛の商売はうまくいかず、その後は大道商人のようなことをして生活します。大道商人は大道芸で客を集め、物を売る商人のことです。落ちぶれたお龍は、そんな自分を恥じて、ほとんど外へ出ることがなかったそうです。

後年はアルコール依存症になり、酔う度に「うちは龍馬の妻や」と松兵衛をののしっていたといいます。さらに松兵衛はお龍の妹(次女)と不倫し、出て行ってしまいます。

アルコールのせいかもしれません。お龍は中風を病み、1906年1月15日、66歳で亡くなります。死因は脳卒中でした。

大津の信楽寺にあるお龍のお墓。「坂本龍馬の妻」との刻印。

神奈川県横須賀市の大津市の信楽寺にお龍のお墓があります。
墓石には「贈正四位阪本龍馬之妻龍子之墓」と書かれています。

お龍の墓は、当時は明治政府の役人にまでなっていた、龍馬の旧知の仲間たちが資金を出し、夫の松兵衛と妹によって建てられました。

「阪本龍馬之妻龍子」と刻まれているのは、お龍が亡き龍馬を想い続けていることを、再婚相手である松兵衛がよく知っていたからかもしれません。

坂本龍馬の妻として知られるお龍は、66年の生涯の半分以上を、坂本龍馬の未亡人として生きたのでした。

 

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