(提供:写真AC)

クリーニング屋でも、「日本」を洗濯するとなると難しいでしょう。しかし140年前、時は幕末、坂本龍馬は「日本を今一度洗濯いたし申候」と、姉へ手紙を送りました。なんとも大胆なワーデイングですね。

日本の洗濯のため、故郷の土佐を飛び出し、江戸、京都、長崎と走り続けた坂本龍馬。今回は、坂本龍馬の人物像に迫ります。

 

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まずは坂本龍馬の生い立ち、略歴を解説。

(東京 赤坂にある坂本龍馬と勝海舟の師弟像 提供:写真AC)

●勝海舟に弟子入り

土佐藩(現高知県)の下士の生まれの坂本龍馬は、19歳で江戸へ遊学し、北辰一刀流の道場で剣術修業する傍ら、兵学者・佐久間象山のもとで西洋砲術を学びます。

坂本龍馬に転機が訪れたのは、27歳、土佐勤王党に加わるものの、翌年には脱藩して土佐を出ます。そこで勝海舟と出会い、弟子入りします。

その後、幕府機関・神戸海軍操練所と私塾・海舟塾で、坂本龍馬は塾頭を務めながら航海術や語学などを学びました。操練所と私塾立ち上げの時、坂本龍馬は勝海舟に命じられ、資金調達にも奔走しました。

しかし、塾生の一人が反幕府集会に参加、操練所と私塾は幕府に捜査され、勝海舟は罷免、操練所と私塾も全面閉鎖となってしまいました。勝海舟は、坂本龍馬を含めた塾生を、薩摩藩(現鹿児島県)の西郷隆盛に託しました。

 

●日本初の商社「亀山社中」を設立。

坂本龍馬は海舟塾の塾生たちとともに、長崎に「亀山社中」を結成します。日本初の貿易会社として知られる亀山社中では、薩摩藩の援助のもと外国から軍艦や武器を買い付け、長州藩(現山口県)に売却しました。下関戦争で外国と戦争をした長州藩は、幕府に武器の輸入を禁止されていたのです。

それまで、薩摩藩と長州藩は「犬猿の中」でしたが、亀山社中による武器取引によって距離を近づけました。このような背景もあり、1866年坂本龍馬の仲介で薩長同盟が成立します。

 

●お龍との結婚、海援隊の誕生

プライベートでは薩長同盟が結ばれた翌年、32歳で楢崎りょうと結婚します。西郷隆盛が仲人をつとめたとも伝わっています。

亀山社中は海援隊と名を改め、土佐藩の外郭機関となります。坂本龍馬は海援隊の隊長となりました。海援隊は運送会社と海軍を兼ねた組織でした。その一方、隊員は航海術や政治学、語学なども学んでいました。

坂本龍馬は「船中八策」を考えます。船中八策では、大政奉還をはじめ、議会を設けること、憲法を制定すること、海軍力の充実などがあげられています。これは土佐藩主を通し、幕府に進言され、大政奉還が実現されます。

しかし大政奉還から一ヶ月、坂本龍馬は京都の近江屋で暗殺され、33歳の生涯を終えました。坂本龍馬のプロフィールをご紹介したところで、いよいよ本題に入っていきたいと思います!

 

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龍馬の人物像。ドラマや小説通りの人なのか?

(提供:写真AC)

坂本龍馬の人物像と聞かれると、多くの人が「いごっそう」な土佐男子をイメージするのではないでしょうか。いごっそうとは、快男児、頑固で気骨のある男という意味を持つ土佐弁です。

豪快で、大胆で、行動力があって、まっすぐ。ドラマや小説では、いごっそうな坂本龍馬が繰り返し描写されます。しかし、メディアで見られる坂本龍馬は、戦後、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』を皮切りに、イメージが固められたものです。

史実に残る龍馬の人物像。プライベートの手紙から見える性格。

(提供:写真AC)

坂本龍馬が家族や知人に贈った手紙は、現存するだけで140通にものぼります。

まずは、坂本龍馬が土佐の姉、乙女へあてた手紙から見てみましょう。坂本龍馬は幼い頃から「乙女姉やん」をよく慕い、土佐を出てからも頻繁に手紙を書いていました。

姉の乙女に書いた手紙の文字を見ると、濃淡と大小がとてもはっきりとしています。時には枠をはみ出しているところもあります。しかし、全体を見るととても伸びやかな印象です。

また、当時の手紙の作法にはあまり則っていません。
特に、家族に書き送った手紙では、擬音を使ったり、イラストを描いたりと、坂本龍馬の手紙は非常に自由です。やはり、自由に発想する人物だったのかもしれません。

坂本龍馬が勝海舟の弟子になったことを綴った、「エヘンの手紙」として知られる、ユーモアたっぷりのこの手紙からご紹介します。

『この頃は、天下無二の軍学者、勝麟太郎(海舟)という、大先生の門人になりまして、大変かわいがられております。
(~中略)
戦が始まれば、それまでの命。
もし命があれば、私が40歳になった時に、昔そんなことを言っていたなあと笑い飛ばしてください。
ここだけの話ですが、少しエヘン顔(自慢げな顔)をしながら、目立たぬようにしております。
徒然草にも、達人と言われるお人の見る目は実にすごいものと書いてありますが、まこと私を見つけた大先生はすごいものです。
エヘンエヘン。
それでは。   龍馬』

親しい姉に宛てた手紙とあり、最も坂本龍馬の「素」の部分が表れた手紙ではないでしょうか。いごっそうな土佐男児というより、姉ばかりの家で育った弟気質が見て取れるようです。
坂本龍馬は古典をよく読み、徒然草を引用していることもわかります。

このように、坂本龍馬が身内へ送った手紙には、冗談も多く、内容も実に豊富で、他人には話さないようなプライベートなことまでよく書かれています。婚約者のおりょうと、姉の乙女との間に立ち、関係を気づかう手紙もあります。

公的な手紙からは「繊細な戦略家」としての龍馬がうかがえる

(提供:写真AC)

しかし一方で、木戸孝允(桂小五郎)をはじめ、パブリックに送った手紙では、冗談などは一切なく非常に生真面目な文面となっています。このような手紙を書く時、坂本龍馬は下書きをしていたことも明らかになっています。

手紙の筆致も、身内へ送った手紙に比べ、几帳面で整ったものになっていることから、坂本龍馬は手紙を送る相手によって、言葉や文字を使い分けていたと見られます。

実際、土佐藩が幕府を説得し、大政奉還を実現させるべきであると強く訴えた坂本龍馬からの手紙を受け取った後藤象二郎は、この手紙に心を動かされたのです。その後、実際に幕府との交渉に全力を尽くし、大政奉還を実現させています。

坂本龍馬の手紙を見ていくと、文面から筆致にいたるまで、TPOをしっかりと使い分ける「戦略家」としての一面が垣間見れます。身内への手紙では姉や姪を笑わせるようなユーモアを見せながら、政治に関わる重要な手紙では、どのように書けば、相手にどのような効果をもたらすのか、坂本龍馬はしっかりとわかっていたのではないでしょうか。

ドラマや小説では「いごっそう」な坂本龍馬ですが、直筆の手紙を見ると、非常に思慮深く、戦略的で繊細な人物像が見えてきます。

 

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