苗字もなく、饅頭屋長次郎と呼ばれていたが、学問が良くでき、藩主・山内容堂から名字帯刀を許された土佐の近藤長次郎。坂本龍馬の友人でよくこれを支えていたが、龍馬が望まない形で命を終えることになったのでした。

 

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龍馬と一緒に亀山社中を設立。

(提供:写真AC)

高知城下の饅頭屋に生まれた長次郎は、饅頭を売り歩く饅頭屋長次郎で通っていました。ただ、子供の頃から頭の回転が早く、賢かったので河田小龍の元で学び、江戸の安積艮斎にも師事したことで才能が花開き、山内容堂も認め、近藤長次郎となったのです。

もともとが商売人ということもあり、岩崎弥太郎とも見知った中で、勝海舟の門下生になったことから坂本龍馬とも親交を結びます。神戸海軍操練所の設立から参加し、やがて龍馬が長崎で亀山社中を作るのにも協力した相棒的存在でした。

饅頭売りの経験があったからかもしれませんが、交渉事には特に能力を発揮して、長州に銃を売って藩主の毛利敬親から直々に礼を言われたり、外国からいろいろ購入するのにも長けた人だったようです。

長次郎がイギリス汽船のユニオン号を長州に引き渡す条件で揉めたときには、龍馬が助け舟を出して解決しています。龍馬にとって、失うことのできない人物であったことは間違いありません。

 

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英国留学の失敗がきっかけで切腹することに。

(提供:写真AC)

勉強熱心だった長次郎ですが、その向学心が仇となります。商売の関係で長州の伊藤博文や井上馨とも親しかった長次郎。二人から西洋で遊学していた頃の話を聞き、自分もヨーロッパで勉強がしたいと強く思ったのでしょう。イギリスに行けないものかと考え始めます。

そこでやはり商売相手でもあるトーマス・グラバーにお願いし、グラバーの船でイギリスに行かせてもらう密約を一人でまとめてしまったのです。いよいよ出航の日となりましたが、運悪く悪天候のために欠航。仕方なくグラバーに訳を話しに行ったところ、亀山社中の仲間に見つかり、密約がばれてしまったのです。

これは社中の規約に触れることで、「違反者は切腹」と決まりがあったため、長次郎は切腹。ただ、これは龍馬が命じたことではなかったといわれています。

龍馬はこの頃、薩長同盟締結のために長崎から離れていました。切腹を命じたのは沢村惣之丞ではないかと推測されていますが、この頃は社中も寄せ集めの集団という感が強く、体育会系の要素があったのでしょう。

相棒の死に、龍馬は激しく悲しんだといいます。長次郎の墓は長崎にありますが、墓碑に刻まれた「梅花書屋氏墓」の文字は龍馬の筆跡だそうで、龍馬にとってこの出来事は痛哭の極みといえるものだったのです。

「海援隊規約」に、長次郎の死の反省がある。

亀山社中は海援隊と改名します。その規約5条をざっくり要点だけ挙げますと、こんな感じです。

1、海外に志あるものは誰でも受け入れる。
2、海援隊は利益を求める。
3、隊士の処分については龍馬が決める。
4、隊士はお互いに刺激し合って勉学に励む。
5、海援隊は土佐が支援するが自営も目指す。

これは龍馬が決めた規約ですが、長次郎のような不幸が二度と起こらぬようにとの反省も見られます。

1と4は海外に強く憧れ、学びたい気持ちから行動した長次郎を庇うような内容となっています。さらに、3の隊士処分の全権は龍馬一人で決するというところは、自分の留守中に長次郎を失った悔恨が龍馬の胸に強く刻まれている証しではないでしょうか。

 

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