(提供:写真AC)
快男子の龍馬が恋い焦がれたという平井加尾は、土佐勤王党の一員として働いた「はちきん(男勝り)」でもありました。女子力と強気を持ち合わせたその魅力と、幕末から明治の混乱期を生きた半生を探ってゆきます。
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竜馬の幼馴染みにして、初恋の人だった。
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平井加尾は坂本龍馬とは竹馬の友の平井収二郎の妹で、龍馬の4歳年下です。子供時代からよく知っており、龍馬の女性観はずっと「加尾より上か、下か」というようなところがあったようです。
琴を弾き、和歌をたしなむ才媛でありましたが、なんといっても「男はいごっそう、女ははちきん」の土地柄。活動的で、負けん気の強い一面もあったようです。龍馬はそんな加尾を愛おしく思い、加尾も悪い気は持ってなかったらしいのですが、二人がどこまでの関係だったかは判然としません。
まあ、探るのも無粋ですから先に進みましょう。
藩主・山内容堂の妹が京都の三条家に嫁いだとき、加尾はその女中として入京しています。上士の家柄であることから抜擢されたのです。同じ頃、土佐では勤王党が勢力を強めており、兄の収二郎と龍馬も党員になっていました。その流れで、加尾も京都で勤王党のために働く活動家になってゆくのです。
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京都では勤王党の志士たちを支える。
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三条家に入りこんでいる加尾は、朝廷の情報を得られる立場だったこともあり、勤王党でも重要な存在となっていました。兄・収二郎にいろいろと報告したり、京都で活動する党員の援助もしていたそうです。この頃、龍馬から「男物の衣服を用意しろ」と依頼されています。
加尾に男装させてスパイ行為をさせるためとか、変装させて駆け落ちするためとか、推論はありますが不明です。その後、龍馬は勤王党を辞め、脱藩。加尾ともそれっきりになりました。
永久の別離というやつです。数年後、収二郎が勤王党の罪で切腹させられたとき、龍馬は姉・乙女への手紙に「収二郎はむごい。加尾はどんなに嘆いているのか」と書いています。加尾への想いは残っていたのでしょうね。
その龍馬とお龍が結婚した同じ年、加尾も勤王党の西山志澄を婿養子に迎えて夫婦になりました。近江屋で龍馬が暗殺されるのはその翌年です。
晩年は伴侶にも恵まれ、平穏な人生を送る。
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加尾を娶った西山志澄(ゆきずみ)は勤王党でありながら、ほぼ平穏無事な人生を歩んだ人です。戊辰戦争では板垣退助に従って功績を挙げ、明治には兵部省、大蔵省で働き、板垣の自由民権運動にも参加しています。
立志社の副社長になり、政治活動で投獄されることもありましたが、後は警視総監まで登りつめました。
加尾の中で龍馬がどれほど大きかったかはわかりませんが、西山志澄の妻の座は勝ち組になったといえるでしょう。お龍などは龍馬の死後はやくざな生活で、酒に溺れて死んでいますから雲泥の差です。
加尾は中江兆民に頼んで、兄・収二郎についての文章を書いてもらい、平井家の名誉を回復させています。また、加尾は龍馬と再会が叶わなかったことを、「女子一生の痛恨」と記しています。
幼馴染の英雄と絶縁した後悔なのかもしれませんが、そこに恋をした男への追慕の情を感じるのは、少々歴史浪漫趣味にすぎるのでしょうか。
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