(皇居 坂下門 提供:写真AC)

福島県いわき市の松ヶ丘公園は、ソメイヨシノとツツジの名所として知られています。この松ヶ丘公園に、磐城平藩4代目藩主、安藤信正の像が建っています。

松ヶ丘公園のツツジも、東京の安藤家下屋敷(磐城平藩邸)から移植されたものです。

1819年、安藤信正は磐城平藩第4代藩主、安藤信由の嫡男として、ツツジが植えられていた磐城平藩邸で誕生します。

 

安藤家は江戸幕府初代老中のひとり、安藤重信の子孫にあたり、若年寄や老中を輩出する譜代の名門です。実父の安藤伸由も老中でした。

安藤信由が死去し、28歳で安藤信正が家督を継ぐと、翌年には幕府の奏者番を皮きりに、10年後には大老井伊直弼のもと若年寄に取り立てられ、一ツ橋派や尊王攘夷派の弾圧に活躍しました。

 

そして1860年、安藤信正は41歳で老中に抜擢され、外国御用取扱として外交を担当するようになりますが、老中就任直後、大老井伊直弼が暗殺されます。後に、桜田門外の変と呼ばれる事件です。

事件発生からの安藤信正の動きは実に早く、すぐさま彦根藩邸に「お見舞い」に赴き、井伊直弼の遺体に、けがの様子をうかがい、見舞いの言葉をかけて帰りました。

将軍徳川家茂からは朝鮮人参が届けられ、派遣された奥医師が遺体を診察します。安藤信正は井伊直弼の死を隠すため、あたかも井伊直弼が負傷し、彦根藩邸で療養していると思わせるための芝居を打ったのです。

 

井伊直弼暗殺の犯行グループの中心は、安政の大獄で藩主や家老など多くの人物が処分を受けた水戸藩を事前に脱藩した元藩士たちでした。

彦根藩主である井伊直弼の家臣たちが、藩主の敵といえる水戸藩を襲撃しかねない状況でした。副将軍家の水戸藩、譜代の中核を担う井伊家が争うようなことになったら、幕府の面目が立ちません。

安藤信正の一芝居で、事態が収拾されたのでした。

 

井伊直弼の死去と桜田門外の変の事後処理が認められ、安藤信正がついに政権を握ります。大老井伊直弼に反発し、老中の職を辞していた久世広周を復帰させると、安藤信正と久世広周が幕府政治を主導していきます。

安政の大獄に代表される強硬路線から、穏健政策に転換、幕府と朝廷の関係改善を目指した「公武合体」策を掲げ、第14代将軍家茂へ孝明天皇の妹・和宮を降嫁させることに成功します。

 

諸外国と条約を結び、自由貿易が解禁されたことで、日本経済は混乱していました。輸出の拡大で主要輸出品の生産が追い付かず、品不足になって国内の物価が急騰、これに呼応し、生活必需品の物価も上昇しました。

さらに、金銀の交換比率が異なるために、金が国外に流出するという事態になります。安藤信正は積極的に貿易統制や財政の立て直しに着手します。

 

また、外交面でも、特に優れた手腕を発揮します。自らも西欧に精通し、事前に用意された答弁に頼らず、諸問題を臨機応変に処理し、外国行使からの信頼を得ます。

1862年1月15日、和宮と徳川家茂の婚儀を一ヶ月後に控えた中、江戸城坂下門付近で、登城中の安藤信正が襲撃される事件が発生します。

 

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安藤信正が「坂下門外の変」で襲撃された理由。

(坂下門 提供:写真AC)

また、事件の全貌と、背景にある公武合体推進政策、事件後の安藤信正について解説していきます。

1860年7月、長州藩の藩船「丙辰丸」の船上で、長州藩の桂小五郎と水戸藩の西丸帯刀の間で「老中・安藤信正排斥」を目的とした盟約「丙辰丸盟約」が結ばれました。

 

桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されて以降、安藤信正は井伊直弼の開国路線を継承しつつも、幕府と朝廷の関係改善を目指し、公武合体策を打ち出し、和宮降嫁実現のため奔走、1662年の1月に和宮と徳川家茂の婚儀が執り行われる運びとなりました。

尊王攘夷派の志士は、幕府、とりわけ和宮降嫁を進める安藤信正は和宮を人質にして廃帝を企てていると主張、公武合体を推し進める安藤信正の動きに憤慨しました。

とくに水戸藩では、井伊直弼の指示を受け、安藤信正が水戸藩弾圧を実行していたため、安藤信正個人に対しても私怨がありました。

 

丙辰丸盟約に基づき、安藤信正暗殺の計画が立てられますが、長州藩内では藩論が公武合体に傾いたため、長州藩士は計画に参加できなくなりました。

そのため、長州藩サイドは計画の延期を提案しますが、水戸藩は機会を逃すことを恐れ、長州藩の協力なしに計画を実行することにします。

当初、安藤信正暗殺は1862年12月15日に予定されていましたが、諸事情により28日に延期、さらに諸大名が総登城して将軍に拝謁する1月15日に犯行実行日を変更しますが、直前となった1月12日に計画の一部が露見、水戸藩と協力し計画に加わっていた宇都宮藩側の参加者が幕府に捕縛されたため、残された水戸浪士だけで犯行を実行しなければならなくなりました。

 

■事件が起きる。

1862年1月15日、午前8時頃、50人以上の供回りを従えた安藤信正が駕籠に乗って登城して来ます。

駕籠が坂下門に差しかかったところで、老中への直訴を装って実行犯のひとりが行列の前に飛び出し、駕籠を銃撃します。この弾丸は駕籠には当たらずに、脇にいた安藤信正の小姓の足に命中します。

この発砲を合図に、残りの実行犯5人が襲撃します。

実行犯のひとりが隙をついて駕籠に刀を突き刺し、安藤信正は背中に傷を負いますが、抜刀しながら城内へ駆け込みます。実行犯6人全員が討ち死にし、安藤信正暗殺計画は失敗に終わります。

背中に2カ所、頬に1カ所の傷を負った安藤信正は一命をとりとめ、2か月後には包帯姿で職務に復帰しようとしますが、坂下門外の変を発端に、安藤信正の立場は追い込まれていくのです。

背景にあった幕府の公武合体推進政策策とは?

(提供:写真AC)

公武合体の「公」とは公家、つまり朝廷(天皇)のこと、「武」は武家である徳川幕府のことを意味しています。安藤信正と久世広周による連立政権が成立すると、公武合体策を推進していきます。

桜田門外の変で暗殺された井伊直弼は、天皇の許可がないまま、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスと通商条約を締結。天皇の意思に背く「違勅」である通商条約締結によって、天皇の意思に反し日本は「開国」することになり、朝廷の強い反発を招きます。

「違勅」「開国」に対抗する「尊王」と「攘夷」という二つのキーワードが結びついた「尊王攘夷」という反幕府スローガンが掲げられるようになったのもこの頃です。

 

安藤信正と久世広周は、まず井伊直弼によってこじれてしまった幕府と朝廷の関係を修復することを優先事項に挙げました。

幕府だけでは対処することが難しくなってきていた外国との諸問題に対し、幕府と朝廷が一枚岩となって対処していく必要があると考えたのです。

そのため、孝明天皇の異母妹である和宮と第14代将軍徳川家茂を結婚させることで、国内世論を統一しようと図ったのです。

これには、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたことで動揺した幕府の威厳を回復させる目的もありました。こうして、1860年10月にには和宮降嫁が勅許されました。

 

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事件後の安藤信正への厳しい世論。

背中の傷や女性問題、収賄問題で政治生命を奪われる。坂下門外の変から2ヶ月後、安藤信正は包帯を巻いて、公務に復帰しようとしました。

療養中も藩邸から通訳を使者にしてイギリス公使オールコックとの交渉を行い、包帯姿で会談に臨みます。安藤信正の姿勢にオールコックは感動し、江戸、大阪、兵庫、新潟の開港開市の延期を受け入れ、5年間の開港開市延期を認めるロンドン覚書が調印されました。

背中を2カ所、頬を1カ所負傷しながらも、イギリス公使オールコックとの会談に成功しますが、2ヶ月の療養を終えて公務に復帰しようとした安藤信正には、「背中に傷を受けるとは、武士の風上にもおけない」という厳しい非難が待っていました。背中に傷を受けたのは逃げたからだ、という意味です。

さらに、アメリカのタウンゼント・ハリスとの収賄問題が取りざたされたばかりか、根拠のない女性問題がささやかれ、老中復帰への反対が相次ぎ、1862年、4月11日に老中を罷免され政治生命を奪われました。さらに安藤信正は蟄居・謹慎を命じられ、磐城平藩の所領から2万石を厳封されました。

1864年、磐城平藩は奥羽越列藩同盟に加わる。

(ツツジ 提供:写真AC)

磐城平藩主はまだ年若く、藩政は安藤信正が指揮していました。
新政府軍の襲撃に備え、農兵を組織し、仙台藩や米沢藩へ応援を要請します。

新政府軍に徹底抗戦した請西藩の軍艦が小名浜へ入港した時にはすぐに使者を送り、協力を取り付けました。大雨が降る中、磐城平藩が新政府軍の襲撃を受けます。

火縄銃が主流であったため、抵抗することができませんでした(火縄銃は雨天では使えない)。安藤信正は磐城平城を脱し、藩兵たちも城に火を放った後、煙に紛れて速やかに城を撤退しました。

安藤信正は奥羽越列藩同盟の盟主、仙台藩領を目指します。

「旅人の歩みもしばしたゆむらん 村雨そそぐ花の萩原」

雨の中、安藤信正が詠んだ歌が残っています。

その後、奥羽越列藩同盟に加わっていた藩が次々に降伏し、ついに安藤信正も磐城平藩の降伏を決意、安藤信正は永蟄居処分となります。

 

1869年には永蟄居を免じられましたが、安藤信正が国政に復帰することはなく、好きな和歌を作って過ごしました。廃藩置県によって磐城平藩の消滅を見届けた3カ月後、安藤信正は1871年、51歳で亡くなりました。

坂下門外の変で背中に傷を負い、「武士の風上にもおけない」と非難された安藤信正ですが、政治生命を奪われ国政を退いてからも、幕府に忠誠を誓い、奥羽越列藩同盟に加わり新政府軍と戦った姿は、立派な武士として東北の人々の心に焼き付いています。

現在、安藤信正はツツジが咲く松ヶ丘公園でいわき市の人たちを見守っています。

 

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