(坂下門 提供:写真AC)

桜田門で殺された井伊直弼の後を受け、老中となった安藤信正。直弼の路線を否定し、穏便な政治を進めた優秀な為政者であった信正ですが、坂下門で襲われるのです。なんとか生き延びた信正には別の不幸が待っていました。

 

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被害者の老中・安藤信正とは?優秀な政治家として幕政に尽力。

(提供:写真AC)

桜田につづく城門の変第2ラウンドともいえる坂下門の変。今度は安藤信正が襲撃された事件です。犯人は桜田門同様、またも水戸藩士。このしつこさは、さすが納豆の本場です。

しかし、信正は先代老中の直弼に比べ、徹底した穏健派。家茂と和宮の結婚をまとめ公武合体を成し遂げ、貧弱将軍家茂をよく支えました。

薩摩藩士のヒュースケン殺害でアメリカと揉めたときも、ちょうど南北戦争で日本に手が回らない機を逃さず、さっさと解決。

直弼時代に結ばれた外国との条約に絡む金貨流出や物価高騰を防止するなど、信正はけっこうやり手なのです。

信正のおかげで、桜田門外の変で失墜した幕府の威信も立て直せていました。ところが、公武合体が気に入らないという水戸や長州の藩士が、この有能な信正を奸物(かんぶつ)と認定し、暗殺計画を進めてゆくのです。

 

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坂下門外の変で襲撃される。犯人側の『趣意書』の内容とは?

(提供:写真AC)

信正暗殺の機会を待つ水戸と長州。そのうち長州は藩の事情で決行を延期したいと提案するのですが、気の逸る水戸は「長州なんかいらんわ」と単独で行動することになります。

1862年1月15日、朝に登城する信正の行列を、6人の水戸藩士が襲います。やり方は桜田門とほぼ同じ。直訴で行列を止め、銃撃、それを合図に襲い掛かるというもの。

このとき襲撃犯たちは意趣書を懐に隠し持っていたといいます。その内容はとにかく「俺たち義士は命を捨てても、幕府の奸邪を殺す」というもので、一方的に自分たちの主張をだらだらと書き、行為の正当性を押しつけているような長文です。

これを憂国の嘆きと見るか、自己中の戯言と見るかは意見のわかれるところでしょうが、襲撃犯の熱意だけはたしかに感じることはできます。

 

幕府はその意趣書を表沙汰にしませんでした。これが世に出れば賛同者が相次ぎ、幕府を転覆させると思ったのでしょう。

現在残っているのは遅刻して襲撃に加われなかった一人が、桂小五郎に事後を託して渡したものだということです。その文面は多くの攘夷志士に火を点けたといいますから、幕府の隠匿は正しい判断だったのでしょう。

背中の傷=逃げた? 政治生命を失う。

坂下門外で襲われた安藤信正。しかし、信正は軽傷で済みます。

包帯姿でイギリス公使と会談し、「負傷してまでも公務を続ける立派な政治家だ」と公使に感心されたといいます。現代でも評価されるでしょう。

ここで、優秀な信正を失わないで良かったね……とならないのが武士の世。信正は背中を斬られていたのです。これは敵に背を向けて逃げた証拠。武士にあるまじき行為です。

それを理由に信正は老中を罷免。隠居させられ、無期限の外出禁止。幕政を立て直しつつあった功労者を、アホな理由で辞めさせてしまうのです。

 

信正は卑怯者のレッテルを張られ、不遇をかこつことになります。行政の融通のきかなさは今も同じですが、これが結果的に江戸幕府にトドメを刺したといえるでしょう。

優秀な人材を自ら切り捨て、自分の首を絞めてしまうことになりました。幕政はどんどん乱れてゆき、権威も廃れてゆきます。信正の背中の傷は、信正の名誉とともに、徳川幕府の致命傷ともなってしまったのです。

 

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