(土方歳三像 提供:写真AC)

1869年(明治2年)、5月11日、蝦夷共和国陸軍奉行並の土方歳三は銃弾を受け、箱館の一本木関門にて戦死、享年、35歳。

現代なら朝刊の見出しに書かれそうです。この箱館戦争、土方歳三は銃弾に倒れるまで、実際にどのような活躍をしたのか?今回は土方歳三にスポットをあて、箱館戦争を徹底的に解説します。

 

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土方歳三のプロフィール。箱館戦争までの足跡。

(函館 五稜郭タワー内の土方歳三像:提供写真AC)

多摩の豪農の生まれの土方歳三は、幕府が募集した浪士組に参加、その後会津藩の計らいで、京都の治安維持を任されることになります。こうして新撰組が発足しました。1863年当時、尊皇攘夷志士たちによるテロが横行して、京都の治安は荒れに荒れていました。

土方歳三は、新撰組副長として、局長の近藤勇のもと、破れば切腹という厳しい掟(局中法度)を定めるなど、浪人の寄せ集め部隊だった新撰組を取りまとめます。池田屋事件などで功績をあげ、ついに土方歳三を含めた幹部が幕臣に取り立てられるまでに成長します。

「戊辰戦争」に突入。旧幕府勢力と新政府勢力による内乱

土方歳三は、新撰組として旧幕府勢力側で戦いますが、兵器や軍装備の西洋化を進めてきた新政府勢力には敵いませんでした。鳥羽伏見の戦い、甲州勝沼戦いを敗れ、江戸城無血開城をむかえます。

その後、宇都宮の戦い、会津戦争を経て、榎本武陽率いる旧幕府勢力と合流します。土方歳三は新撰組を率いて蝦夷地(北海道)へ渡りました。箱館をおさめた旧幕府勢力は、五稜郭を拠点に、蝦夷地を制圧すべく、松前藩を落としました。

こうして五稜郭では選挙が行われ、榎本武陽を総裁に、蝦夷共和国を樹立しました。土方歳三は陸軍奉行並(陸軍では2番目の地位)に選ばれました。

しかし、風向きはいよいよ悪くなります。旧幕府軍勢力は、座礁や宮古湾での新政府軍艦隊との戦いにより、主力艦隊を失い、大きく戦力を失いました。そうした中、新政府軍は、続々と青森に集結、蝦夷地へ上陸しようとしていたのです。

土方歳三の簡単なダイジェストをお送りしたところで、いよいよ本題に入っていきたいと思います!

松前の戦い、木古内の戦い、矢不来の戦いで旧幕府軍が敗戦

(土方歳三が進撃した松前城。提供:写真AC)

1869年、明治2年、4月9日、総勢約7000人の新政府勢力が、蝦夷地の日本海側、乙部に上陸しました。このことを知った旧幕府勢力は、二股口、木古内口、松前口の3カ所で迎撃に備えます。土方歳三は300名の兵を率いて二股口へ向かいました。

4月10日から2日かけて、土方歳三の指揮のもと、二股口では16箇所におよぶ胸壁(背の低いとりでのこと)を作り上げ、新政府軍の侵攻を待ちました。

4月13日、正午過ぎ、700名の新政府勢力部隊が、二股口へ攻撃を開始しました。数に勝る新政府軍は、次々に兵を入れ替え、まさに間髪入れず、銃撃をくり返します。

 

土方歳三率いる旧幕府勢力は、雨が降る悪天候の中、2つの小隊が交代で銃を撃ち続けました。その戦闘中、新政府勢力は鈴の音を鳴らし、包囲したと思わせる作戦に出ました。

旧幕府勢力の兵たちは自軍が包囲されたと思い、動揺しましたが、土方歳三は「ほんとうに包囲しようとするならば、音を隠し、気付かれないようにするだろう」と冷静に状況を判断し、部下たちを落ち着かせました。

この間、土方歳三は、合間、合間に、兵たちに自ら酒を振るまって回ったと言われています。「酔って軍律を乱されては困るので、皆一杯だけだ」と言う土方歳三に、兵たちは笑って了承したそうです。

 

戦闘は16時間にのぼり、旧幕府勢力が撃った銃弾は「3万5千発」にのぼりました。単純計算だと、戦闘中、ひとりの兵士が撃った銃弾は、150発におよびます。

当時の銃はハリウッド映画に出てくるようなマシンガンではありません。単発で撃つものです。そのため、150発というのは相当な弾数になります。

 

◼︎4月14日、新政府軍は撤退。

松前口は、海上からも新政府勢力の艦隊からの砲撃にさらされ、17日に陥落します。大鳥圭介(陸軍奉行)指揮のもと、木古内口を守る500名の旧幕府勢力は善戦します。

しかし70名以上の死傷者を出し、一度は後退、援軍や孤立部隊を吸収し、木古内奪還に成功するもののの、新政府勢力の物量を前に、地理的に有利な矢不来まで退却します。

 

◼︎4月22日、新政府勢力は、旧幕府勢力が守る二股口を再攻撃。

土方歳三はこれも撃退に成功します。23日、新政府勢力は正面から攻めることを諦め、山をよじ登り、側面の山肌から銃弾を浴びせました。

夜を徹した激戦となり、旧幕府兵士たちは、射撃で熱をおびた銃身を桶に入れた水で冷やしながら応戦しました。その間、指揮官の土方歳三は、胸壁の間を廻って、兵士たちを鼓舞しました。

24日未明、伝習士官隊隊長、滝川充太郎率いる隊が抜刀し、敵中に突撃、新政府軍は混乱をきたし敗走しました。しかし、滝川充太郎率いる伝習士官隊は多くの戦死者を出しました。

伝習歩兵隊隊長、大川正次郎が滝川に詰め寄ったところ、土方歳三は「大川の理、滝川の勇」と言って、その場を収めたそうです。25日未明、撤退した新政府軍は、これより二股口を迂回する山中を進みます。

しかし1600名の新政府勢力に攻撃を受けた矢不来では、160名の戦死者を出し、五稜郭へ退却します。

 

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◼︎4月29日、二股口の部隊、五稜郭へ撤退。

箱館戦争が勃発。土方歳三が展開した籠城戦の全貌
5月11日、午前3時――箱館湾に砲撃が響きました。
ついに新政府勢力によって、箱館へ攻撃が開始されたのです。

船で移動した新政府勢力は、箱館山の背後から奇襲しました。
箱館山の防備にあたっていた弁天台場は、スパイによって砲台を使用不能にされ、奇襲と同時に箱館湾からの砲撃にさらされました。さらに箱館市街へ新政府勢力の兵が侵攻します。多くの部隊が五稜郭へ敗走しました。

その頃、土方歳三は五稜郭と箱館山の間に位置する「千代ヶ丘陣屋」で、額兵二小隊を率いて出陣する支度を整えていました。弁天台場では新撰組を中心とした兵に加え、座礁した旧幕府勢力の兵たちも集まり、孤立していました。土方歳三は籠城戦を嫌い、僅かな兵を率い、この弁天台場の救出に向かったようです。

土方奮戦するも、敵の銃弾に倒れる。

千代ヶ丘陣屋から箱館山方面へ向かったところに、一本木関門があります。もともとは 榎本武揚が蝦夷共和国の財源確保のため、通行料徴収を目的に設置したものですが、柵が設けられていました。敗走してきた旧幕府勢力の兵たちが、続々と一本木関門へ向かって来ます。

一本木関門にも、旧幕府勢力艦隊「蟠龍」が放った砲弾が、新政府勢力艦隊「甲鉄」の火薬庫に命中した轟音が響きました。一本木関門に到着した土方歳三は「この機会を逃すな!」と声を張り上げました。

そして軍奉行添役、大野右仲に、敗走してくる旧幕府勢力の兵を率いて進軍するよう命じ、「我この柵にありて、退く者を斬る!(五稜郭へ敗走する兵を斬る)」と言ったのです。

 

ここから土方歳三は、一本木関門で新政府勢力と応戦します。馬上にあって、自らも鬼のように戦い、そして指揮を執りました。軍奉行添役、大野が率いる兵たちも、土方歳三によって士気を取り戻し、勢力を盛り返しつつありました。

その時、土方歳三の腹部を、銃弾が貫きました。
落馬した土方に側近が近付いた時には、すでに絶命していたそうです。

敵の銃弾、あるいは味方の流れ弾に当たったと見られますが、その一方で、降伏に断固反対した土方歳三を味方である旧幕府勢力が暗殺したという説もあります。

5月12日、新政府勢力は五稜郭に向けて艦砲射撃を開始しました。15日には食糧が尽きた弁天台場が陥落、18日には籠城に突入していた五稜郭も開城。一年半におよぶ戊辰戦争に終止符が打たれました。

土方死す。辞世の句を超訳

よしや身は

蝦夷が島辺に朽ちるとも

魂は東の君やまもらむ

土方歳三の辞世の句は、多摩の生家にいくつか記載が残っていますが、「よしや身は、蝦夷が島辺に朽ちるとも、魂は東の君やまもらむ」が、箱館にいた土方歳三が伝えた辞世の句として考えられています。

生家の伝記には、漢文体で書かれているが、実際に土方歳三が遺したのは和歌とされ、万葉仮名を用いたとされています。もともと、土方歳三の趣味が俳句であったことを考えても、おそらく万葉仮名を用いているでしょう。

それでは、土方歳三の辞世の句を、現代語訳にします。

『よしや身は』
かりに(よろしくないことがあっても)、私の体は

『蝦夷が島辺に朽ちるとも』
この蝦夷の島のあたりで朽ちてしまっても

『魂は東の君やまもらむ』
魂は「東の君」を守るだろう。

 

土方歳三に遺髪、写真、辞世の句を託された市村鉄之助が箱館を出たのは、5月5日のことと伝えられています。二股口の戦いのあと、そして箱館戦争が勃発する間のことです。

新政府勢力の包囲が狭まり、旧幕府勢力との全面戦争はいつ起きてもおかしくはない状態でした。『蝦夷が島辺に朽ちるとも』と詠んだように、自らの命も長くはないと思ったのか、あるいは命はなきものという覚悟を表したのかもしれません。

では、「東の君」とは誰のことなのでしょう。『まもらむ』という表現は、いくらか男らしい硬い印象を与えます。東の君を、徳川家や幕府、将軍、徳川慶喜を表しているという解釈が一般的ですが、(実際、君という言葉は、古くから尊い人物を表すのに用いられてきました)他にも、いくつかの解釈があります。

 

土方歳三の生家は多摩です。故郷の家族を思ったとも言われていますし、恋多き土方歳三のことですから、想っていた女性のことかもしれません。

あるいは、関東の地で斬首された、新撰組局長、近藤勇とも、江戸で病死した新撰組の沖田総司のことを思ったのかもしれません。近藤勇と沖田総司は、土方歳三とは新撰組立ち上げ以前からの古い付き合いだったので、それも頷けます。

もともと、和歌には「掛詞」という、ひとつの言葉に複数の意味を込める手法があります。俳句に慣れ親しんできた土方歳三です。もしかしたら「掛詞」として、「東の君」にいくつもの意味を込めたのかもしれません。

 

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