(提供:写真AC)

戊辰戦争、江戸に迫る新政府の官軍。だが、立ち向かう江戸にも英雄あり。小栗忠順です。近代化を推し進め、新政府軍と戦える準備をしていた忠順ですが、その策は受け入れられず処刑された非業の英雄でした。

 

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幕府で数々の改革を断行。日本を近代化に導く。

(提供:写真AC

小栗上野介こと忠順は、さまざまな奉行職を務めた能臣です。外国奉行時代は、対馬を占領したロシアと交渉。

町奉行と勘定奉行兼任時代は財政の立て直し、軍艦の購入、製鉄所の建設と鉄山開発などを行い、西洋の雇用形態をいち早く取り入れた改革者でもありました。

徳川埋蔵金をどこかに隠した張本人などともいわれますが、これはちょっと疑問ですね。フランスと強く結びつきがあり、その指導で軍の整備や兵器の国産化にも着手。主に工業面で大きな変化をもたらしました。

歴史作家の司馬遼太郎氏に「明治の父」と評価されたのも理解できます。ただ、忠順の考えはけっこう反対もされています。革新的すぎて幕府に受け入れられにくかったのでしょう。

 

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横須賀造船所を建設。日本海軍の礎を築いた。

(現在の横須賀造船所 提供:写真AC

忠順のもっとも大きな功績は、横須賀に建設された製鉄所でしょう。後に造船も手掛けるのですが、幕府が倒れたために一旦潰れてしまいます。

明治に再び政府管轄になり、造船も再開。海軍のものとなって、第二次大戦終結まで、日本海軍の主力工廠として稼働しました。

 

現在は在日米軍の基地とされていますが、ドックはまだ健在で、船の修理なども行えるといいます。横須賀はこの造船所によって栄えた街で、今もいたるところで日本海軍の歴史を感じることができます。

近代史やミリタリーのファンは楽しめることでしょう。

これほど幕府に尽くした人でありながら、歴史的に忠順があまり注目されないのは、戊辰戦争において忠順が、江戸無血開城を成功させた勝海舟と対立し、徹底抗戦の立場だったからです。幕府が敗れ、歴史が勝者によって作られるの法則で、後世の評価が得られにくかったということに他なりません。

最期はろくに取り調べもされず処刑された。

忠順は幕府に近代軍備をさせた人物です。当然、新政府軍が江戸に押し寄せたときも「戦って勝てる」と自信があったでしょう。やり手の忠順は軍資金を揃え、戦略も周到に立て、準備万全だったのです。

しかし、怖れていたのか、疲れていたのか、慶喜は恭順に傾いていて、忠順の策を受け入れてくれません。勝海舟によって江戸は新政府に引き渡され、忠順は役を解かれました。

「アメリカに逃げろ」と助言する人もありましたが、忠順はそれを断り、故郷の群馬高崎に戻ります。そこで捕縛され、ほとんど取り調べもされないで斬首されてしまいます。42歳でした。

 

忠順とともに徹底抗戦を主張し、箱館戦争で敗れた榎本武揚、大鳥圭介が明治政府に登用されていることを考えると、ずいぶん違いがあります。

戊辰戦争後、新政府軍の軍師的存在であった大村益次郎は後日に忠順の策を聞き、「それをやられていたらこっちが負けていた」と驚いたそうですから、忠順に対して並々ならぬ恐怖を感じていたのかもしれません。

敗者として脚光が当たらなかった小栗忠順でしたが、最近はその素晴らしさが見直され、注目も上がってきているようです。

 

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